2008年7月31日木曜日
2008年7月27日日曜日
André Bauhchant
The right painting is 'Fruits and flowers on round fruit dishes in front of Lavardin Castle' by Bauhchant. I bought the postcard.
2008年7月26日土曜日
ウクライナ大使館のパーティー
パーティーは、そうですね、期待が大き過ぎたせいでしょう、まずまずというところでした。ご馳走も飲み物もふんだんにありましたが、クワスはなく、ワインはオーストラリア産でした。なんて、文句を言ってはいけません。大使館の方達は熱心にもてなして下さったし、ウクライナ料理もおいしかったです。いかにもロシア的だと思ったのは、ロシア風餃子ワレーニキとキノコのマリネ、ビーツのサラダでした。ワレーニキはひき肉入り、チーズ入りの物の他に、アメリカンチェリー入りの物がありました。デザートのワレーニキを頂いたのは初めてです。一番おいしかったのは・・・・・・鰊の酢漬けでした。これを読んだら、ご馳走を作って下さった大使館の方々はがっかりするかもしれませんが、たんに味覚の問題です。私は火を通さない生に近い食感が好きで、ステーキはいつもレアです。
パーティーの始めに挨拶をされた参事官の言葉はロシア語に聞こえましたが、後で書記官に伺ったらウクライナ語でした。この書記官は日本に赴任して4年目で、日本語が巧みな方でした。イタリア人のカメラマンが撮影に来ており、イタリア語を話すチャンス!でしたが、彼の日本語のほうがよほど達者だったので、日本語の会話になりました。彼も日本在住4年目で、それぐらい住めば外国語も流暢に話せるようになるものかと思いました。
食後に、ウクライナを紹介するDVDを観せて頂きました。首都キエフと、黒海に面した二つの港町オデッサとヤルタに焦点を当てて、ウクライナの歴史と文化を解説していました。キエフには国立歌劇場があり、毎夜どこかでオペラやバレエが演じられているそうですが、このDVDを観る限り、ウクライナはロシアというよりヨーロッパという感じでした。ソ連邦解体後、いち早く独立したのも頷けます。でもヨーロッパの一国という観点から見たら、たぶんにロシア的な文化圏なのでしょう。
このDVDで、ヤルタはチェーホフの「犬を連れた奥さん」の舞台だと言っていたので、帰宅後に読み返しました。この海辺の保養地の暖かな気候や、洗練され開放的な街の雰囲気を知った後では、冬と因習に閉ざされたモスクワからやって来た中年のグーロフが、ヤルタで若い人妻アンナと恋をしたのがごく自然に、身近に感じられました。
2008年7月24日木曜日
ウクライナ
私がある国の文化を知る術は何だろうと考え、文学だと思いました。それ以来、他の国の方々とお会いするパーティーの前には、その国の小説を一冊は読むようにしています。明日はウクライナ大使館のパーティーですが、アルク翻訳大賞の課題の翻訳で手一杯だったので、何も読んでいません。ですが、数年前にアンドレイ・クルコフの『ペンギンの憂鬱』(新潮社)を読んでいました。動物園から譲り受けた憂鬱症のペンギンと暮らす売れない作家の話で、ソ連邦崩壊後の何かと物騒な世情を背景に、作家が次第にギャングの抗争に巻き込まれていく話です。以前、ブリティッシュ・カウンシルのレッスンの前に、ロビーでBBCの衛星放送を見ていたら、ロシアの確か銀行家が暗殺された、というニュースが流れていました。隣りで見ていたロシア人のクラスメイトが、「また殺されたの」と言っていましたが、一見平穏な市民生活の裏に死が潜む、そんな時代の雰囲気が伝わってくるお話です。今は、どうなっているのでしょう?
ゴーゴリーもウクライナの作家です。『外套』などの代表作は読みましたが、あまり好きでありません。話が貧乏臭いんですもん。ビンボーは現実の生活だけで沢山。
大使館のパーティーでは、その国に関する懸賞クイズがあるので、ざっとおさらいをしました。ウクライナは旧ソ連邦南端の、黒海や東欧諸国に接した農業国です。食文化が豊かでボルシチが有名ですが、私のお目当ては7月4日のブログで書いたクワスと、ウクライナワインです。翻訳大賞の翻訳が一通り終わったので、明日は心置きなく飲むぞ!
2008年7月21日月曜日
軽井沢へ
私は、軽井沢のハッピー・バレーの写真を眺めています。毎年、アスファルトの照り返しや蒸し暑さがこたえ始めるゴールデンウィークあたりになると、軽井沢を想います。堀辰雄や中村真一郎の本を手に、旧軽井沢の唐松林を次に散歩できるのはいつでしょう?
左上の写真は、シャーロック・ホームズと私です。パイプを持っている方がホームズです。追分で撮りましたが、なぜ彼の銅像が追分にあるかというと、日本で初めてホームズ・シリーズを完訳した、延原謙氏の仕事場があったからです。延原氏の翻訳は新潮文庫で愛読しましたが、こんな所に籠って仕事に専念できるなんて羨ましいですね。
ブリティシュ・カウンシルで時おり開催される作文コンクールで、「週末旅行にお薦めの場所」という課題が出た時は、軽井沢に付いて書きました。残念ながら落選しましたが、以下はその応募文です(2005年5月作成)。
Go to Karuizawa
I met a student from Iceland in this winter. ‘The first summer in Japan was awful…’ said he. If you tired of hot and humid, like him, I recommend a weekend in Karuizawa. Karuizawa is a highlandtown in Nagano Prefecture. The Nagano Shinkansen takes about an hour to reach Karuizawa Station from Ueno or Tokyo Station.
If you have leeway in your budget, I will recommend Manpei Hotel where John Lennon liked too. This classic hotel itself is a witness to history of Karuizawa. Massive Karuizawa carving furniture in lobby and guest rooms are originated to supply to Westerner’s villas. Karuizawa used to be an international summer resort for foreign residents in Southeast Asia before World War II. They are remnant of the those days that local specialties of Karuizawa carving, fruit preserve and milk product, English nicknames for beauty spots, outdoor activities such as tennis, golf and cycling are popular. You can buy the specialties at Kyu-Karuizawa Ginza Street and the Karuizawa Prince Shopping Plaza.
It’s also good to walk or cycling in the woods with Tatsuo Hori’s works. He is well-known for his novels take place in Karuizawa. If you walk in Happy Valley where there used to be his cottage and there is Manpei Hotel still now, you will see mist in the trees, moss carpet and cottages are a piece of landscape. And you will hear the singing of wild birds in the early morning. The early morning is the most beautiful hour in Karuizawa.
2008年7月20日日曜日
9ヵ月ぶりにブリティッシュ・カウンシルへ
ブリティッシュ・カウンシルで英語を習うのは、9ヵ月ぶりです。翻訳講座が夏休みに入り、翻訳の学習も、補助車輪なしで自転車に乗れるようになった感じになってきたので、また英国の空気に触れたくなったのです。受講中はライティングの課題に終われたり、「英国人であること」そのものを鼻にかける講師も中にはいて、「英国人が英語を話すのは当ったり前じゃないか、べらぼうめ」と腹の中で毒づくこともあったしますが、やはりブリティッシュ・カウンシルに通っていないと、生活の中で何かが欠落している気がします。振り返ってみると、この9ヵ月の間、一度も英国人と話していませんでした。
ブリティッシュ・カウンシルと飯田橋駅の間に、「Books SAKAI 深夜プラス1」という書店があります。ミステリー系の文庫本が充実しているので、講座の行き帰りによく立ち寄ります。昨日は、クリスティの『娘は娘』(ハヤカワ文庫)を買い、一晩で読み終えました。
ところで、アルク翻訳大賞の翻訳は・・・・・・捗っていません。
2008年7月16日水曜日
脱線が止まらない
帰りの電車の中で『代表的日本人』を読み始めました。内村鑑三の視点で綴った西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中村藤樹、日蓮上人の伝記です。二宮尊徳の章からスタートしました。有名なわりに何をした方なのかよく知らなかったので。まだ途中ですが、イエス・キリストを彷彿とさせるエピソードもあり、ここに書いてある通りの方だったら、「至誠天に通ず」の生きた見本です。
二宮尊徳的勤勉さの対極にある――と言っては言い過ぎですが――のが、ガルシア・マルケスの世界です。彼はコロンビアのノーベル賞作家で映画監督、フィデル・カストロの友人でもあります。南米に限らず貧富の格差があり過ぎ、身分制度が固定している社会では、個人の勤勉さで貧困を克服するのは難しいので、怠け者や「金はある所から分捕ろう」式の発想が蔓延するようです。
十年ほど前はマルケスに熱中して、立教大学ラテンアメリカ研究所の会員になり、ラテンアメリカ文学の講座を受講していました。彼から受けた多大な影響の一つに、折に触れては読み返す、マルクス・アウレーリウスの『自省録』を知ったことが挙げられます。マルケスの短編に引用されていました。
彼の作品はビジュアル的でストーリーが起伏に富んでいるためか、よく映画化されます。8月には『コレラの時代の愛』が封切られますが、この邦訳は2006年にやっと出版されました。当時は熱が冷めていたので、図書館で借りてほとんど読まずに返してしまいました。今回は映画を観る前にちゃんと読もうと、買いました。
が、その前に課題が。7月末締切りのアルク翻訳大賞に応募しようと、今朝から訳し始めました。それを終えたら『コレラの時代の愛』を読もうと、目に付く所に置いておきます。馬の鼻先にぶら下げる人参のようなものです。
帰宅したら、5月に応募した翻訳トライアルの結果が届いていました。小説の一部を訳し、AAからEまでの6段階評価を受けるもので、AAはプロ並み、Aはプロにあと一息というレベルです。今回の課題は米国のミステリで、ゴールデンウィークはこの翻訳に費やされました。当然、AAかAを狙っていましたが、結果はB、「仕事をするレベルにはもう一息」でした。
アルク翻訳大賞の結果が分かるのは年末か、来年始めです。ちょっと気の長い話ですね。なんて、悠長にブログを書いてる場合じゃないんですが。試験前になるとミステリに熱中した、学生時代の癖がいまだに抜けません。ちなみに昨夜から、数年ぶりにラジオのイタリア語講座の聴講を再開しました。イタリア文化会館などへ通ってイタリア語をかじったこともありますが、英語の学習に専念しようと、イタリア語からは遠ざかっていました。英語がどうやら軌道に乗ってきたので、息抜きに他の外国語に触れたくなったのです。←だから、こんなこと書いている場合じゃないってば!
ちなみに今回の翻訳大賞の出版翻訳部門の課題も、米国のミステリです・・・・・・ああ、脱線が止まらない。コレラの時代の愛 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1985))">
2008年7月15日火曜日
近況報告―って誰への?
また、先週末に木のいのち木のこころ〈天〉(草思社)を読み終えました。代々、法隆寺の宮大工だった西岡常一氏の聞き書きです。
シャーロック・ホームズの"The Case-Book of Sherlock Holmes" (シャーロック・ホームズの事件簿) を、あと少しで読み終えそうです。数年前からホームズ・シリーズの原著を読みつつ、BBCのラジオドラマのホームズ・シリーズのCDやテープを聴いています。初めの頃は遅々として進まなかったのが、最近は以前よりはスラスラ読めるようになり、いま4冊目を読み終えつつあるところです。飽きっぽい自分としてはよく続いていると思うのですが、プロの翻訳家としては恐るべき読書スピードの遅さです。道はまだまだ遠い・・・・・・。
2008年7月13日日曜日
『眠れる森の美女』の音楽
実は、全幕物のバレエを観るのは苦手です。私がバレエに求めるのは、男性ダンサーの超人的な跳躍や、バレリーナの、日常生活ではあり得ぬほどの典雅な身のこなし、難度の高い技を一見いとも軽々と舞ってみせる非日常性、スター性なので、コールドバレエや踊りのない物語の部分は、たいてい退屈に感じてしまうからです。スター級ダンサーが見せ場を次々と繰り広げる、ガラ形式の舞台なら楽しめるのですが。
しかし今日の舞台は、全幕を通してわりあい楽しめました。なんて、傲慢な感想ですが。ダンサー達が上手かったのはもちろんですが、チャイコフスキーの音楽の美しさ、衣裳や舞台装置の美しさのおかげもあります。バレエは踊りだけでなく、五感の感覚を全開にして楽しめるものなのだなぁと感じました。
それにしても、音楽の心理的効果はすごいですね。オーロラ姫が16歳の誕生日に4人の王子から求婚される「ローズ・アダージョ」の場面と、百年の眠りから覚めた後、フロリムント王子と踊る場面の音楽から、彼女の内面の成長が伝わってきました。「ローズ・アダージョ」でのオーロラは、「その子二十 櫛にながるる黒髪の おごりの春のうつくしきかな」という与謝野晶子の短歌そのままの、憂いを知らぬ少女でした。それが百年の眠りを経た後では、成熟した淑やかな女性に変わっていました。『アンナ・カレーニナ』で、キチイがヴロンスキーへの失恋の苦しみと病いから癒え、リョーヴィンからの再度の求婚を謙虚に受け入れた場面を思い出させます。
なお左上の写真は、今日の主演サラ・ラムの、「ローズ・アダージョ」の場面です。
ところで「百年の眠り」が人生の試練のメタファなら、眠りに落ちる原因となった「錘(糸巻きの針)」は何を象徴しているのだろうと、いま考えています。
『ワーキングプア』の一部私訳
前後2回に分けて、デイヴィッド・K・シプラー著『ワーキングプア』第9章の一部を訳したので、以下に載せます。なおシプラーは、ピューリッツァー賞受賞者です――なんて、たったいま知ったのですが。
既訳には、森岡孝二ほか訳の『ワーキング・プア』が岩波書店から出ています。
"The Working Poor" by David K.Shiplerより
第九章 ドリーム
「大人になったら」と十一歳のシャミカは言った。「弁護士になりたいの。そしたら人助けができるでしょう」どんな人を助けるの、と私は尋ねた。「ホームレス」と彼女は答えた。「小さな子には助けが要るでしょ。だから、ホームレスを助けてあげたいの」すべてが可能だという確信にまだ瞳が輝いている、六年生の明るい信念できっぱりと言った。
彼女の住むアナコスティアの最貧困地区、ワシントンの大理石の歴史的建物が点在する場所から汚染された川を渡った地域では、この子ども時代の澄んだ眼差しが高校までもつことはめったにない。そこへ至るまでに、どういうわけか、若者の将来の見通しは曇らされている――あるいはスポーツ選手として、アメリカンフットボールの競技場やバスケットリングの下で名声と富を得ようという、甘い考えにすり替えられているのだ。
貧困地区の中等学校[注一]で私が話を聞いた子どもの大半は、大学へ行きたがっていた。親の中には失業者もおり、他は家具の運搬、図書館の本の整理、政府関係の建物の清掃といった仕事にありついていた。多くはスーパーマーケット、工場、介護施設、自動車修理工場、病院、美容院で働いていた。一握りの親だけが機械工、大工、電気技師、コンピューターのオペレーターといった技能職に就いていた。子どもたちが夢を実現しようとするなら、ほとんどの子が教育、職業、所得といった社会的なヒエラルキーを上昇していかねばならない。つまり、アメリカンドリームを叶えねばならないのだ。
シャミカの六年生の友人グループ五人のうち、三人は弁護士になった自分を思い浮かべていた。もう一人は検眼医[注二]になりたがっていた。五人目のロバートは「(会社の)社長や何かか、お医者さんみたいにオフィスで働いている」自分を夢見ている。その目的は、いい行いをする力を手にすることだ。「そしたら、家族が困ったりなんかしたときに、おれが駆けつけて、助けてあげられるじゃん」と彼は言った。会社を経営するのは「ホームレスの人たちの所へ行って助けて、お金をあげて、慈善や何かの手助けをしてやりたいから」だ。
オハイオ州アクロン市の、オポチュニティパークという貧困地区で会った六年生グループの子たちは、歌手や小児科医、警官、看護師、ラッパー、機械工になりたがっていた。その野心は若い生命の縁から溢れ出ていた。建説労働者と美容師の娘ドミニクは、盛んに「考古学者と小児科の先生」になりたがっていた。「いっぺんに?」と私は尋ねた。「ちがうよ、考古学者は年を取ってから、小児科の先生はもうちょっと若いとき、二十歳とか三十歳ぐらいのときに」
このアクロン市の学校の七学年の黒人は、黒人が脚光を浴びる最も典型的な職業を挙げた。フットボール選手、バスケットボール選手、ラッパーだ。白人はアーティスト、獣医、自動車修理工を挙げた。白人のドンは、市の道路舗装の仕事がしたいという理由を、こう説明した。「払いがいいだろう」ワシントン市の二つの低所得地区にある学校の七年生はほとんどが黒人で、将来の夢として弁護士、写真家、フットボール選手、バスケットボール選手、FBIの捜査官、女性警官、セールスマン、医者、ダンサー、コンピューター技術者、建築家、アーティストを挙げた。八年生は海洋生物学者やコンピューターエンジニア、科学者、建設労働者、弁護士、小児科医になりたいと言った。その子たちが挙げた職業は、たまたまその仕事に就いている人と出会ったか、それについて読んだかテレビで見たかして、時には熱い想いと共に、たいていはふとした一時の気まぐれとして、心に入り込んだものだ。もし統計を取ったら、夢を実現する者も中にはいるだろうが、たいていは実現できずに終わるということになるだろう。多くの子が高校を中退し、限られた子だけが大学へ行き、将来はほとんどの子が低賃金の仕事に追い込まれてしまうだろう。
ミセスCは生徒の野心を冷笑した。彼女はシャミカの学校、ワシントン市のパトリシア・R・ハリス教育センターで十五年間、歴史を教えているベテラン教師だ。「生徒たちは毎日遅刻するし、一日おきに休むんです」と、この教師は嘲った。ミセスCは黒人で、教え子の大半もそうなので、人種差別だと咎められることなく、手厳しく、歯に衣を着せずにものが言えた。「生徒に訊くんです、『今から十年後には何をしていますか』って。みんな、医者になっているとか、バスケットボールの選手になっているとか言います。弁護士になっているとか。フットボールの選手になっているとか。で、私は言うんです、『フットボールチームはいくつありますか、それぞれのチームには選手が何人いますか? あなたが選手になれるチャンスはありますかって。それに、弁護士になるなら読解力が要るってこと、分かってますか? 医者になるなら、数学や読解力が要りますよ。夢を実現することはできるけど、努力を続けなきゃいけませんよ』って」彼女は、お手柔らかとは言えぬやり方で子どもの夢を踏みにじっていたが、事実を話そうとしていたのだ。「生徒には夢を持って欲しいけど、夢を実現する過程では現実的になって欲しいんです」
ミセスCを始め多くの教員にとって、実態は憤慨やる方ないものだ。ミセスCはこう言った。「あの子たちは怠け者なんです。本を読もうとしないし、宿題もやってきません。宿題なんて、虫歯を抜くようなものなんです。たいていの子が家では関心を払われてないので、学校で関心を引こうとするんです」それで生徒は問題を起こすのだ。先生の裁量で褒美や罰は与えられないんですか、と私は訊いた。ミセスCは頭を横に振った。「あの子たちは平気でFの成績を貰ってますよ。気にしていないんです。気にしているのは教師だけです」と決めつけた。
シャミカはもう反目の連鎖に巻き込まれていた。彼女は愛らしく、おしゃべりだった。二本のすてきな三つ編みが、頭の高い所から編み込まれて耳の上に垂れているが、それは母親の細やかな愛情のあかしだ。ひっきりなしにおしゃべりをしているので、授業中の私語が多すぎるのを注意しようと、先生は両親へ電話してきた。シャミカは、先生は別のシャミカという子と自分をごっちゃにしているのだ、と言い張った。それで両親はその先生が嫌いだし、自分は先生の評価を気にかけないようにしている、と面白そうに言っていた。「宿題を返してもらったら、先生ったら利巧ぶってんの。私がこの言葉を間違えたら、先生は利巧ぶって書いてたの、『勉強の必要がありますね、グリル』って。GRILって書いてあんのよ。そのあと通信簿を貰ったら、私にDを付けてるの、『GIRL(ガール)』の綴り方も知らないくせに!」と、シャミカはとげとげしく言った。
[注一] 中等学校(middle school):米国では地域によって異なるが、通常五、六年から八学年まで。
[注二] 検眼医(optometrist):眼鏡やコンタクトレンズを作る際の視力測定や、目の病気の診断などをする医師。目の手術や薬の処方などは、専門の眼科医(ophthalmologist)が行う。
2008年7月7日月曜日
かものはしとは?
日本も戦前までは、貧しい親が幼い娘を売るということはよくありました。少女たちは置屋や遊郭で、芸者や遊女の見習いとして芸や礼儀作法を仕込まれた後、年頃になって「御目見え」させられたのですが、カンボジアの場合は待ったなしです。5、6歳でも客を取らされ(!)、抵抗すれば電気ショックのお仕置きを受け、HIVに感染したり、辛さを忘れるために麻薬に走ったり、自殺する子もいます。婚前交渉した女性は結婚できないという風潮のため、その後の人生は大きく歪み、HIV感染者の母親から、母子感染した子が生まれることもあります。
当人も家族も、そんな事は望んでいません。では、なぜそんな事が行われているかと言えば、強制売春がはびこる社会に共通していること、貧困と女性の地位の低さが原因です。特にカンボジアは内戦の影響で、父親が亡くなったり、長い間行方不明になっていたり、また実質的な一夫多妻が容認されているため、父親はいても十分な援助が受けられない、というケースもあります。母親が働こうにも農村には仕事がなく、年長の子どもが都市へ出稼ぎに出ざるを得ない、そこで騙されて性産業へ売り飛ばされる被害者が跡を絶たないのです。
「かものはし」が主に行っているのは、農村に「コミュニティファクトリー」という職業訓練と仕事を提供する場を造ることです。そこで藺草[いぐさ]や水草でハンドバックやゴザなどの手工芸品を作り、それを売った収益でファクトリーを経営して、村人の経済的・精神的自立を促すのが目的です。
資金調達のために会費制の会員や寄付も募っていますが、 ウェブ制作会社も運営しています。社会問題解決のためにビジネスを立ち上げる「社会起業(ソーシャルベンチャー)」を、私はかものはしによって知りました。
2008年7月6日日曜日
ハッピーバスデー、A!
「それって、ご馳走を食べる口実?」と思ったあなた、その通りです。愛猫の誕生祝いをした友人妻夫がいますが、私たちがご馳走を食べたり飲んだりしている傍らで、当の猫は自分が主人公だということにさえ気づいていませんでした。
彼は少女時代からの英雄で、心の恋人のようなものなので、美術展でアレクサンドロスをモデルにした彫刻や絵画に出会うと、幼馴染みに再会した懐かしさを覚えます。
毎年7月6日には、プルタルコスのアレサンドロス伝を読み返すようにしています。歴史が好きなので、各時代ごとにお気に入りの英雄がいますが、一番好きなのはやはり彼です。その魅力を数え上げればきりがありませんが、私にとっての最大の魅力は素朴な高貴さです。弱い人間ほど複雑なものです。精神に高貴さ、強さ、誠実さのいずれかを備えている人間は、本質的には単純なのではないでしょうか。彼はマケドニア国王や全ギリシア軍の総指揮官として複雑で多岐にわたる政務と軍務を司っていましたが、根本的には直情的で一途な青年で、苦労人だった父親のフィリッポス2世のようには老成することのできない人だった、だから33歳で亡くなったのは天命だと思います。
1994年5月に、古代遺跡を巡るギリシア一周のバスツアーに参加しました。マケドニア地方ではテッサロニキ、古都ペラ、ヴェルギナへ行きました。ヴェルギナは、フィリッポス2世が葬られた地です。墳墓に付随した博物館で埋葬品を観ましたが、フィリッポスに被せられていた黄金製の樫の葉の冠は、博物館の入口にあった樫の葉そのままでした。マケドニアは樫が豊かで、月桂冠の代わりに樫の葉を編んだ冠が用いられていたのです。墳墓のある丘陵地帯はカモミールに覆われ、花から漂う林檎の香りに満ちていました。
2008年7月4日金曜日
ニコ・ピロスマニ―グルジアの素朴派
「子供たちは丈の高い草を分けて来るので、やっと見分けのつくものもいれば、道路づたいに来るものもいたが、みんなパンの包みや、ぼろきれで栓をしたクワス[注]の瓶を、重そうに手にさげていた。」(木村浩訳、アンナ・カレーニナ (中巻) (新潮文庫)
[注]クワス・・・本式にはライ麦と麦芽、家庭では黒パンとイーストを醗酵させて作る清涼飲料で、アルコール度1~2.5パーセント。コーラか、気の抜けたビールのような味だそうです。
ピロスマニはグルジアの画家で、今日行ったBunkamura ザ・ミュージアムの「青春のロシア・アヴァンギャルド」展で知りました。この作品自体は出展されていませんが、同じようにグルジアの風物を、独習者らしい素朴な筆致で描いた作品が10点まとめて展示されており、その一角だけ「これぞ、ロシア」という感じがしました。土着の人間が土着の風物を描く強烈さに比べると、他の「アカデミックな」画家の作品の印象は色褪せ、西欧の亜流品という感じがしました。
展示作品の中で気に入ったのは、「コサックのレスラー、イヴァン・ポドゥーブニー」と「祝宴」です。前者は残雪を頂いた山脈を背景にしたコサック人の全身像、後者はダ・ヴィンチの「最後の晩餐」風に正面を向いて祝卓に連なった男達の絵です。
ピロスマニはアンリ・ルソーに譬えられる素朴派で、私はルソーも大好きです。また別の素朴派、アンドレ・ボーシャンも。というわけで、自分が素朴な絵が好きなことに、今日初めて気がつきました。もっとも、私以外にはどうでもいい事ですが。でも大半のブログって、本人以外にはどうでもいいコトを書くためにある、んですよね?
というわけで、些事をついでに書いておくと、今日、初めてTRADOS(トラドス)を使いました。翻訳支援ソフトで、実務翻訳の求人条件によく「TRADOSの実務使用経験のある方」とあるので、使い方を覚えなくては、と昨年から思っていました。解説本を買ってそのままになっていたのが、今日よくやく役立ちました。
Bunkamura 青春のロシア・アヴァンギャルド
2008年7月2日水曜日
ロアルド・ダールの “The Umbrella Man” 私訳
以下は “The Umbrella Man” の私訳です。なお、既訳には田口俊樹訳「アンブレラ・マン」があります(『王女マメーリア』 (ハヤカワ・ミステリ文庫)収録)。
カサおじさん
ゆうべ、お母さんとわたしが出あった、おかしなでき事を話しましょう。わたしは十二歳で、女の子です。お母さんは三十四歳だけど、わたしはもう、同じぐらいの背丈です。
昨日の午後、お母さんは、わたしを歯医者へ診せに、ロンドンへ連れて行きました。歯医者は、虫歯を一つ見つけました。それは奥歯で、それほど痛くはなく詰めてくれました。それから、喫茶店へ行きました。わたしはバナナスプリットを食べ、お母さんはコーヒーを一杯飲みました。帰ろうと席を立つ頃には、六時ぐらいになっていました。
喫茶店を出ると、雨が降り始めていました。「タクシーを拾わなくちゃ」と、お母さんは言いました。わたし達はいつもの帽子とコートでしたし、どしゃ降りだったのです。
「喫茶店へもどって、雨がやむまで待とうよ」と、わたしは言いました。バナナスプリットを、もう一つ食べたかったのです。あれはステキでした。
「やまないわよ」 お母さんは言いました。「帰らなきゃ」
雨の中、わたし達は歩道に立って、タクシーを探しました。たくさんのタクシーが来ましたが、どれもお客を乗せていました。「運転手つきの車が、あったらいいのに」と、お母さんは言いました。
その時です、男の人が近づいて来たのは。彼は小柄で、とても年をとっていて、たぶん七十歳か、それ以上でした。彼はいんぎんに帽子を持ち上げて、お母さんへ言いました。「おそれ入ります。失礼をお許し頂けないでしょうか・・・・・・」 彼はステキな白い口ひげと、ふさふさした白いまゆ毛と、ほんのり赤らんだ、しわしわの顔をしていました。彼は高々とさしたカサで、雨をよけていました。
「はい?」 お母さんは言いました、とても冷たく、よそよそしく。
「ちょっとした、お願いをできないでしょうか」 彼は言いました。「大変ささいな、お願いなのです」
お母さんが、彼をうさんくさげに見ているのを、わたしは見ました。彼女は疑り深い人なんです、わたしのお母さんは。二つのことには特に、うたがいを持っていました――知らない男の人と、ゆで卵です。ゆで卵のてっぺんを切ると、ネズミか何かを見つけるんじゃないかと思っているように、スプーンで中をかき回すのです。知らない男の人に対しては、こんな黄金の規則を持っています。「立派そうに見える男の人ほど、疑ってかからなくてはいけないわ」 その小柄なお年寄りは、特に立派でした。彼は礼儀正しかったのです。品のいい話し方をしました。きちんとした身なりをしていました。本物の紳士でした。紳士だと分かったのは、靴のせいです。「その人のはいている靴で、紳士かどうか、いつも見当がつくわ」というのが、もう一つの、お母さんの決まり文句でした。その男の人は、ステキな茶色の靴をはいていました。
「実を申しますと」 小柄な男の人は言いました。「いささか困っておりまして。お手を貸して頂きたいのです。大した事ではございません、それは確かです。何でもないことです、実のところ、ですが、ご助力がいるのです。ごぞんじでしょうが、奥様、わたくしのような年寄りは、ちょくちょく、ひどい物忘れをするようになるものでして・・・・・・」
お母さんのあごがつき上がり、鼻先で彼を見下ろしました。ものすごくこわいのです、お母さんの鼻先にらみは。彼女がこれをやると、たいていの人は、すっかり、どぎまぎしてしまいます。お母さんがすさまじい鼻先にらみをしたら、校長先生がどもって、バカみたいにニタニタ笑い始めたのを、一度見たことがあります。でも、カサをさした、歩道の小柄な男の人は、まぶたをぴくりともさせませんでした。彼は優しくほほ笑んで、言いました。「どうぞ信じて下さい、奥様、いつも通りでご婦人を呼び止めて、やっかい事を話すわけではございません」
「そう願いたいものですわ」 お母さんは言いました。
お母さんのとげとげしさには、まったくきまりの悪い思いをしました。彼女には、こう言いたかったです。「ねぇ、ママ、どうしちゃったの、彼はとってもとっても年をとっていて、感じもいいし礼儀正しいし、困っているんだから、そんなにじゃけんにしないで」。でも、何も言いませんでした。
小柄な男の人は、カサを片手からもう片方の手へ、持ち換えました。「今まで忘れたことは、けっしてなかったのですが」 彼は言いました。
「何を、忘れたことがないんですって?」 お母さんは、いかめしくたずねました。
「サイフです」 彼は言いました。「別の上着に入れたままにしてきたに、違いありません。実に、間のぬけたことをしたものですな?」
「お金を下さいと、頼んでいらっしゃるの?」 お母さんは言いました。
「ああ、何てことを、違います!」 彼は声を上げました。「仮にもそんなお願いをするなんて、めっそうもない!」
「それなら、何を頼んでいらっしゃるの?」 お母さんは言いました。「早くして頂きたいわ。ここにいたら、ずぶぬれになってしまいます」
「わかっております」 彼は言いました。「ですから、奥様が雨をしのげるように、このカサをお渡し致しますから、持っていて頂きたいのです、もし・・・・・・もし、ただ・・・・・・」
「ただ、何ですの?」 お母さんは言いました。
「ただ、そのかわり、わたしが家へ帰るだけのタクシー代を一ポンド、頂けるといいのですが」
お母さんは、まだ疑っていました。「そもそも、お金をお持ちでないのなら」と、彼女は言いました。「どうやって、ここまでいらしたんですか?」
「歩いてまいりました」 彼は答えました。「毎日、結構な長い散歩をして、タクシーを呼んで帰るのです。日課にしております」
「それなら、どうして歩いてお帰りにならないんですか?」 お母さんは、たずねました。
「ああ、そうできたらいいのですが」 彼は言いました。「本当に、そうできたらいいのですが。ですが、わたしの老いぼれた足では、歩いて帰れないでしょう、もう、ずいぶん歩きましたから」
お母さんは下くちびるをかみながら、じっと立っていました。気持ちが少しやわらぎ始めたのが、分かりました。雨をよけるカサが手に入るという考えは、いい申し出だ、という気にさせたはずです。
「結構なカサですよ」 小柄な男の人は言いました。
「ええ、存じてます」 お母さんは言いました。
「絹ですよ」 彼は言いました。
「分かります」
「でしたら、お受け取り下さい、奥様」 彼は言いました。「二十ポンド以上致しましたよ、うけ合います。ですが家へ帰れて、この使い古した足を休められるのでしたら、それは大したことではありません」
お母さんの手が、おサイフのとめ金をさぐっているのを見ました。彼女を見ているわたしを、お母さんは見ました。今度は、わたしが鼻先にらみをしたので、言っていることが、彼女には、すっかり分かりました。ねぇ、聞いて、ママ、と話しかけていたのです。そんなやり方で、くたびれたお年寄りの弱みにつけ込むなんて、絶対いけないよ。ひどいよ。お母さんはためらって、わたしを見返しました。それから、小柄な男の人へ言いました。「二十ポンドもする絹のカサを頂くなんて、まったくいい事とは思えませんわ。タクシー代だけさし上げて、カサはお持ちになって頂いたほうがいいと思いますけど」
「いや、いや、いや!」 彼は声をはり上げました。「めっそうもない! そんなことは、思いもよりません! 絶対にいけません! そのようなお金、奥様からはけっして受け取れません! このカサをお持ち下さい、奥様、貴女方の肩がぬれないようになすって下さい!」
お母さんは得意気に、わたしを横目で見ました。ほうら、ごらんなさい、と言っていました。あなたが、まちがっているのよ。彼は、わたしにカサを持っていてもらいたがっているんだから。
彼女はおサイフをさぐって、一ポンド札を取り出しました。それを、小柄な男の人へさし出しました。彼はそれを受け取って、カサを手渡しました。お札をポケットへ入れ、帽子を上げ、腰をかがめてペコリとおじぎをして、言いました。「おそれ入ります、奥様、おそれ入ります」 それから、行ってしまいました。
「こっちへ来て、ぬれないようになさい」 お母さんは言いました。「わたし達、ついてるわね。絹のカサって、持ったことなかったのよ。買うゆとりが、なかったもんだから」
「どうして最初は、あの人につっけんどんだったの?」 わたしはたずねました。
「彼はペテン師じゃないって、納得したかったの」 彼女は言いました。「で、納得したわ。彼は紳士だった。役に立てて、とってもうれしいわ」
「そうね、ママ」 わたしは言いました。
「本物の紳士よ」 彼女は続けました。「お金持ちでもあるのよ、でなきゃ、絹のカサは持てなかったもの。爵位を持った人だったとしても、驚かないわ。サー・ハリー・ゴールズワージーとか、そんな感じの」
「そうね、ママ」
「これは、あなたにはいい教訓になるわ」 彼女は続けました。「事を急かないこと。誰かを判断するときは、いつも、じっくり時間をかけること。そうすれば、まちがえっこないわ」
「ほら、彼が行く」 わたしは言いました。「見て」
「どこ?」
「あそこ。道を渡ってる。あれっ、ママ、なんて急いでるんだろう」
わたし達は、小柄な男の人が、行きかう車の間を、ひらりと身を交わすように、すばしこくぬって行くのを見ました。彼は通りの向こう側へ着くと、左へ曲がって、すごい早足で歩いていました。
「彼がとっても疲れているようには見えないけど、そう見える、ママ?」
お母さんは、答えませんでした。
「タクシーを拾おうとしているようにも、見えないけど」 わたしは言いました。
お母さんはじっとつっ立ったまま、通りの向こうの小柄な男の人を、見つめていました。彼は、はっきり見えました。ひどく急いでいました。他の歩行者をよけて、行進中の兵隊さんのように両腕を振って、あわただしく歩道を歩いています。
「彼は何かをたくらんでいる」 お母さんは言いました、無表情に。
「でも、何を?」
「わからない」 お母さんは、ぶっきらぼうに言いました。「でも、つきとめてやるわ。いらっしゃい」 彼女はわたしの腕を取り、一緒に道を渡りました。それから、左へ曲がりました。
「彼が見える?」 お母さんはたずねました。
「うん。あそこにいる。次の通りを、右へ曲がっている」
わたし達は曲がり角で、右に曲がりました。小柄な男の人は、二十ヤード(約百八十メートル)ぐらい先にいました。うさぎみたいに、飛びはねるように急いでいるので、遅れずに着いていくのに、早足で歩かなくてはなりませんでした。雨は、ますます激しくなり、しずくが彼の帽子のつばから両肩へしたたり落ちるのが、見えました。でも、わたし達は、大きくてすてきな絹のカサの下に寄りそって、ぬれずにいました。
「一体、何をたくらんでいるの?」 お母さんは言いました。
「もし振り返って、わたし達を見たらどうする?」 わたしは、たずねました。
「そうしたって、かまうもんですか」 お母さんは言いました。「ウソをついたんだから。これ以上歩けないほど疲れ果てたと言っといて、わたし達が追いつけないぐらい、急いでるじゃない。ずうずうしいウソつきね! いかさま師よ!」
「つまり、爵位のある紳士じゃないってこと?」 わたしは、ききました。
「おだまんなさい」 彼女は言いました。
次の交差点で、小男は、また右へ曲がりました。
それから、左へ曲がりました。
それから右へ。
「こうなったら、あきらめないわ」 お母さんは言いました。
「彼が消えっちゃった!」 わたしは声を上げました。「どこへ行っちゃったの?」
「あのドアへ入って行ったわ!」 お母さんは言いました。「見たわ! あの家へ入ったのよ! まぁ、パプじゃない!」
それはパブでした。入口に大きな字で、「レッド・ライオン」と書かれていました。
「中へは入らないでしょ、ねぇ、ママ?」
「ええ」と、彼女は言いました。「外から見はりましょう」
パプの正面には、一枚の厚い板ガラスでできた大きな窓があり、窓の内側は少し湯気でくもっていましたが、近くに寄れば、ガラスごしに中がとてもよく見えました。
パプの窓の外で、二人はからだを寄せ合いました。わたしは、お母さんの腕を、しっかりにぎっていました。大きな雨つぶが、カサの上で、そうぞうしく音を立てていました。「彼がいた」 わたしは言いました。「あそこに」
のぞき込んでいる部屋は、人とタバコの煙でいっぱいで、その真ん中に、わたし達の小男はいました。もう帽子やコートはぬいでいて、人ごみをぬって、だんだんとバーへ向かっていました。そこへ着くと、バーに両手をついて、バーテンダーへ話しかけました。くちびるが動いたので、注文したのが分かりました。バーテンダーは、ちょっと彼に背を向け、あめ色の液体をふちまで注いだ、小ぶりのタンブラーを持って、振り返りました。小男は、カウンターへ一ポンド札を一枚置きました。
「わたしの一ポンド!」 お母さんは、いまいましげにささやきました。「まぁ、あつかましいったら!」
「グラスに入っているのは何?」 わたしは、たずねました。
「ウイスキー」 お母さんは言いました。「ストレートのウイスキーよ」
バーテンダーは、一ポンド札のおつりを渡しませんでした。
「きっと、トレブルウイスキーよ」 お母さんは言いました。
「トレブルって何?」 わたしは、たずねました。
「ふつうの量の三倍ってこと」 お母さんは答えました。
小男はグラスを取り、くちびるへ当てました。それを少しずつ傾けました。それから、グラスの底を高めに傾けました・・・・・・もう少し高く・・・・・・もっと高く・・・・・・ウイスキーはあっという間にのどへ流し込まれて、長い一息でなくなってしまいました。
「すっごく高い飲み物だね」 わたしは言いました。
「バカげてる!」 お母さんは言いました。「ひと飲みしてしまうものに、一ポンド払うなんて、考えてもごらんなさい!」
「一ポンド以上についてるよ」 わたしは言いました。「二十ポンドの絹のカサが、かかっているんだから」
「そうね」 お母さんは言いました。「頭がどうかしてるんだわ」
小男は空のグラスを片手に、バーのそばに立っていました。今はほほ笑み、ほんのりと赤らんだ丸い顔一面に、活き活きとした喜びの輝きのようなものが、ひろがっていました。舌が出て、貴重なウイスキーの最後の一滴をさがように、白い口ひげをなめるのを、わたしは見ました。
ゆっくりと、彼はバーに背を向け、人込みの中を少しずつ進み、帽子とコートをかけた所へもどりました。彼は帽子をかぶりました。コートを着ました。それから、何も気づかれないような、ものすごく落ち着き払った、さりげない態度で、コートかけにたくさんかかっている、ぬれたカサのうちの一本を取って、その場をはなれました。
「あれ、見た!」 お母さんは、金切り声を上げました。「彼のしたこと、見た!」
「シィィィー!」 わたしは、声をひそめました。「出て来るよ!」
二人は顔をかくすためにカサを下げ、その下からのぞきました。
彼が出て来ました。でも、わたし達のほうは、見ようともしませんでした。新しいカサを高々と開き、来た道を、急いで去って行きました。
「そう、あれはちょっとした商売なのね!」 お母さんは言いました。
「あざやかだねぇ」わたしは言いました。「すっごい」
彼の後をつけて、初めに出会った表通りへもどり、彼がすんなりと新しいカサを、また一ポンド札と取りかえるのを、見物しました。今度は帽子やコートさえない、ひょろっと背の高い男の人とでした。取引がすむとすぐ、あの小男は通りを急いで去り、人込みにまぎれてしまいました。でも、今度は反対の方角でした。
「なんて、かしこいんでしょう!」 お母さんは言いました。「同じパブへは、二度と行かないのよ!」
「一晩中、やっていられるね」 わたしは言いました。
「そうね」 お母さんは言いました。「もちろん。きっと、雨の日になるのを、夢中で祈ってるのよ」 (完)
初の社内翻訳と睡眠学習効果
米国の出版社との出版社契約書で、法学部出身だということ思い出す稀な機会だった。講義中はよく居眠りをしたものだ。その睡眠時間と授業料を考えたら、実に高価な昼寝だった。しかし柔弱な脳味噌にも関わらず、堅苦しくややこしい法律文書に免疫ができたのは、睡眠学習の効果だろう。エッヘン。