そもそも原作があまり面白くないのだ。シャンタル・トマの『王妃に別れを告げて』(白水社)が原作で、この映画を観るために前もって読んだが、期待が大き過ぎたせいかあまり面白くなかった。でも、とても意味のある作品ではある。物語は、フランス革命が始まった1978年7月14日からの3日間のベルサイユ宮殿を主軸に描かれている。フランス革命は、王制下で特権を享受していた貴族と、貴族に搾取されて来た民衆のどちらの側から見るかで意味がまったく異なる出来事で、今までの歴史観はその2つのどちらかからの視点で語られて来たようだが、『王妃に別れを告げて』は王家に仕える平民の視点で描かれている。それだけでも意義のある作品だ。ベルサイユ宮殿の使用人達は、経済的には王家に依存している。主人からの覚えの目出度い者は貴族以上に王族に心酔し、目をかけてもらえない使用人は秘かに王族に反感を抱いている。それが革命を機に一挙に表面化し、あくまでも王家に忠誠を誓う者、盗みを働く者、仕事をサポタージュする者、宮殿から逃げ出す者など、使用人に限らず貴族も様々な反応をし、ベルサイユ宮の秩序は乱れていく。
この歴史小説を読みながら、私は昨年の東日本大震災を思い出していた。私は職場にいて、揺れが収まった後、テレビでそれがマグニチュード9の地震で、被害は広範囲に及んでいることを知った。震源地の東北で津波で街が浸水されている映像を観て、東京の震度5の揺れは大したことではなかったのだ、とヘンに安堵した。
未知の災難に襲われた時一番怖いのは、自分の置かれている状況が的確に把握できないことだ。地図もナビゲーターもなしに、見知らぬ土地に突然、置き去りにされたようなものだから。通信手段の発達した現代でさえ、あの地震の時は被災の中心地にはニュースが届かなかった。ましてフランス革命が起きたばかりのベルサイユでは、パリで起きた暴動の詳しいニュースは入って来ず、それがやがて自分達の生活に降りかかって来るであろう影響について予測し得た人は一人もいなかった。王権は神聖なものであったし、仮に一つの王朝が倒されることがあったとしても、「では、次の王様は誰?」というのが自然と浮かんで来る疑問だった。王制そのものが廃止されるとは、革命が起きた当初はほとんどの人は考えていなかったろう。東日本大震災に勝るとも劣らぬ未曾有の事件だったわけで、人々が混乱し、右往左往するのも無理はない。
未知の災難に襲われた時一番怖いのは、自分の置かれている状況が的確に把握できないことだ。地図もナビゲーターもなしに、見知らぬ土地に突然、置き去りにされたようなものだから。通信手段の発達した現代でさえ、あの地震の時は被災の中心地にはニュースが届かなかった。ましてフランス革命が起きたばかりのベルサイユでは、パリで起きた暴動の詳しいニュースは入って来ず、それがやがて自分達の生活に降りかかって来るであろう影響について予測し得た人は一人もいなかった。王権は神聖なものであったし、仮に一つの王朝が倒されることがあったとしても、「では、次の王様は誰?」というのが自然と浮かんで来る疑問だった。王制そのものが廃止されるとは、革命が起きた当初はほとんどの人は考えていなかったろう。東日本大震災に勝るとも劣らぬ未曾有の事件だったわけで、人々が混乱し、右往左往するのも無理はない。
秩序が次第に崩壊していく「ベルサイユの3日間」というテーマ自体はとても面白いものだ。作者のトマはフランスの文学者で、史実に忠実にベルサイユの暮らしを再現している。ただ筆致が論文風に、客観的に冷静に淡々と語られていくので盛り上がりに欠けるのだ。アレクサンドル・デュマのようなプロのエンターテイナーだったら「史実」はちょっと脇に置いて、虚実取り混ぜたストーリー展開で波乱に富んだ3日間を描き出せたろうに。この小説がフェミナ賞を受賞したのはまだ分かるとして、フランスでベストセラーになったのはちょっと驚きだ。フランス人はこんな理屈っぽい小説が好きなのか?
映画はもう少しは面白いだろうと期待していた。確かに原作よりは面白かった。何より映像的に美しかった。実際にベルサイユ宮殿で撮影され、あでやかな衣裳の役者達が在りし日の宮廷を再現していた。夜は暗く、蠟燭の灯りだけが頼りの暗闇はラ・トゥールの絵そのものだった。あの光と闇のコントラストは、彼が日常的に目にしていた光景だったのだなぁと改めて思った。
監督と脚本はブノワ・ジャコーで、主人公のシドニー・ラボルトはレア・セドゥが演じている。シドニー・ラボルトは王妃の朗読係の補佐役だ。孤児のシドニーはマリー・アントワネットに心酔している。母親のイメージの投影、若い女性が魅力的な年上の女性に抱く憧れ、平民の貴族に対する尊敬―そんな感情が一体となって一途に王妃を慕っている。マリー・アントワネットもその一途さやシドニーの若さを好ましく思い、可愛がっている。ただ、あくまでも主人と使用人という立場でだ。マリー・アントワネットが愛しているのは「親友」のポリニャク伯爵夫人だ。原作には登場しないゴンドラ―ベルサイユには人工の運河まであるのだ!―のハンサムな船頭に口説かれてシドニーの心はいくらか傾くが、彼はポリニャク伯爵夫人の情人だった。
というように、シドニーが好きになる人達は既にポリニャク伯爵夫人のものなのだった。バスティーユが襲撃されるとマリー・アントワネットはポリニャク伯爵夫人の身を案じ、亡命を勧める。内心では「いいえ、王妃様のおそばを離れは致しませんわ」という抗議を期待していたのだが、ポリニャク伯爵夫人はあっさりと亡命に同意する。「親友」に見捨てられた王妃は深く傷つきながらもなおも友の道中を案じ、シドニーにポリニャク伯爵夫人の替え玉になってと頼む。ポリニャク伯爵夫妻は従者に変装し、シドニーがポリニャク伯爵夫人に成りすますのだ。有名過ぎる伯爵夫人が暴徒に見咎められ、生命の危機に晒された時の用心に。どこまでも王妃に付いていくつもりだったシドニーだったが、王妃の願いを断るには彼女を愛し過ぎていた。
原作はシドニーが亡命後の余生を送るウィーンでの回想から始まるが、映画は亡命の途上で終わっている。国境か県境かどこかの関門で尋問を受けるが、シドニーはポリニャク伯爵夫人の役を毅然と演じ切り、ふたたび馬車の旅が続けられる。「わたしは朗読係。やがて何者でもなくなる」というナレーションで映画は終わる。
原作はシドニーが亡命後の余生を送るウィーンでの回想から始まるが、映画は亡命の途上で終わっている。国境か県境かどこかの関門で尋問を受けるが、シドニーはポリニャク伯爵夫人の役を毅然と演じ切り、ふたたび馬車の旅が続けられる。「わたしは朗読係。やがて何者でもなくなる」というナレーションで映画は終わる。
これは女同士の精神的な三角関係のドラマだ。もっとも「三角関係」だと思っているのはシドニーだけで、王妃と伯爵夫人は二人の友情に平民なんぞ関わりようがないと思っているし、そもそもポリニャク伯爵夫人が王妃に「友情」を感じていたかどうかも疑わしい。ルイーズ・ヴィルジェ=ルブランが描いたポリニャク伯爵夫人の肖像画を見ると、マリー・アントワネットが好みそうな愛らしい容姿をしてはいるが、目が何かを語っている。そこに冷静な打算を読み取るのは、後世の人間の後知恵だろうか? もっとも打算と機転によって生き延びた人々が子孫を残していけるわけで、ポリニャク伯爵夫人が格別、悪人というわけではない。危機が迫ったら、まず我が身の安全を講じて危険地帯から逃げ出すべし、というのが先の震災でも得た教訓だ。だからフランス革命の初期に亡命した人達は、正しい状況判断をしたのだ。マリー・アントワネット達も暴動が起きたらさっさと亡命するか、あくまでも国王夫妻としてフランスに留まり、発想を切り替えてせめて立憲君主の座を確保すべく尽力すれば良かったのだが、いよいよどうにもならなくなってから逃げ出し、しかも失敗したものだから国民の反感を買い、ついに王制そのものが廃止されてしまったのだ。
シドニーは架空の人物ではあるが、機敏なポリニャク伯爵夫妻と行動を共にしたおかげで生き延びた。原作ではその後のシドニーは回顧的な亡命フランス人になっているが、映画のラストはもう少し未来に期待を持たせる。報われぬ憧れに別れを告げ、マザーコンプレックスを克服し、教養のある平民の女性として等身大の生を生き始められそうな余韻があった。
終映後、私は日比谷の映画館を出て銀座へ行った。クリスマスの三連休前の金曜日で、銀座の夜景でクリスマスの気分を楽しみたかったから。最近のイルミネーションはLEDの青白い照明がほとんどだが、銀座のメインストリートの街路樹のイルミネーションは昔ながらの黄色と赤の電球で、そのほうが温かみがあり、よりクリスマスらしく感じられた。去年の地震の後しばらくはコンビニエンスストアのネオンサインも消えていたのに、その翌年の年末には何事もなかったかのように工夫を凝らしたイルミネーションが銀座の夜を彩っている。つくづく日本は立ち直りの早い国だと思った。
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