一昨日、「レオ・レオニ 絵本のしごと展」へ行った。会場はBunkamuraザ・ミュージアム。
レオ・レオニは米国で活躍した絵本作家、イラストレーター、グラフィックデザイナーだ。絵本を創り始めたのは後半生の49歳からで、会場では絵本の原画が展示され、絵本も読めるようになっている。
彼の絵本は説教臭くなく、純粋に楽しめるところがいい。『びっくりたまご』がいい例だ。鶏の卵を拾ったと思ったらワニが孵化し、そのワニを鶏だと勘違いしたまま終わる蛙達の話で、粗忽者が主人公の落語のパカ話と同じような愉快さがある。
私が一番気に入ったのは『アレクサンダとぜんまいねずみ』(図)だ。しがない普通のネズミのアレクサンダは、親友のウィリーが羨ましくて仕方がない。ウィリーは玩具のぜんまいのネズミで、その家の娘に可愛がられている。アレクサンダは、魔法使いの蜥蜴にぜんまいのネズミに変えてもらうため、紫の小石を探し始める。ようやく探し当てた時、ウィリーは他の古い玩具と一緒に捨てられるところだった。アレクサンダは蜥蜴に、ウィリーを普通のネズミに変えてくれるように頼む。魔法は叶い、ウィリーとアレクサンダは大喜びで夜明けまで踊り明かす、というお話だ。こうした愉快な絵本の原画は、色鉛筆や水彩の背景に動物達が色紙で貼られているコラージュだ。
彼の絵本の主人公はネズミや小魚、尺取虫などの小さな生き物だ。そのほうが子どもが絵本の世界に入っていきやすいからだ、と彼は説明している。そう、子どもは小さくか弱い存在だ、肉体的にも社会的にも。
社会的な意味では、彼も「弱い」存在だった。オランダ生まれのユダヤ人で、イタリアで幸せに暮らしていたのにムッソリーニの反ユダヤ政策のために米国に亡命さぜるを得なかった。政情や社会情勢に左右される庶民は、みんなか弱き存在だ。彼は絵の才能と知性と、おそらくは人柄の良さのおかけで戦争を乗り切り、自分の足場を亡命先で築けた。小さな生き物や変わり者が知恵や団結力で困難を乗り超えるという彼のストーリーの骨子は、彼の生き方を反映しているのだろう。
先週、映画を観た影響で、今は『ホビットの冒険』の原作を読み返している。ホビットも小人で、今週はどうもファンタジーづいている。まだ読み始めたばかりだが、これが不朽の名作になったわけがよく分かる。ホビット族は決まりきった安楽な生活のパターンを好む英国人のカリカチュアで、この物語全体が英国社会のカリカチュアだ。レオ・レオニは子どもの頃にアクアリウムを持っていて、その中で植物を育てたり蜥蜴などを飼い、自分の力でコントーロール可能な箱庭の世界を築いていたわけだが、「ホビット」シリーズは作者のトールキンの箱庭で、大学教員だった彼が属していた中産上層階級の箱庭でもある。どの登場人物にも短所と長所があり、それがいかにも現実にいそうなタイプなので、大人が読んでもリアリティーを感じる。
「シャーロック・ホームズ」シリーズもそうだ。子ども時代からの愛読書で今でもよく読み返すし、またそういう大人が世界中にいるのは、この物語にリアリティがあるからだろう。ホームズの素晴らしい才能と我慢ならない欠点の数々、相棒のワトソンの凡庸だが温和で安定感のある人柄、こういう組み合わせのカップルや友人、仕事上のパートナー関係はよくあるし、相手の欠点をけなし合いながら心の底では信じ合っている姿は好ましい。
人物や物事の短所と長所を客観的に描きながら物語に陰影とリアリティーを与える手法は、男性作家のほうが得意なような気がする。先日、有吉佐和子の『華岡青洲の妻』を読んだが、人物描写の平板さや物の見方が単視眼的なのが気になった。私は原田康子が好きだが、彼女の作品にも同じことを感ずる。一般に、女性のほうが物の見方が善悪二元論的に単純で、男性はもう少し対象から距離を置いて客観的に見る傾向があるように思う。私自身も実生活においては単純な、白黒の区別をはっきりつけたがる女性だが、文芸作品の読者としては、主人公は常に正しく美しく、敵は常に邪悪で醜い、という二元論的構造の作品はリアリティーがなくて単調だなぁと感じる。
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