昨日の土曜日の午後は印刷会社を見学した。5月から受講している出版技術講座の講義の一環だ。光陽メディアという印刷会社で、神楽坂の、こんな街中の建物の密集地帯に印刷工場があるのか、と思われるような地帯にある会社だ。もっともそれは本社で、本格的な工場は埼玉にある。私達が見学させて頂いたのは本社内にある、コンピュータで紙面のレイアウトを組んだり、画像を撮影したりするオペレーションの現場や、オンデマンドの機械などだ。埼玉工場の印刷現場はプロジェクターで観せて頂いた。印刷会社は、本社は都内にあるが、工場は郊外へ移転していく流れのようで、2013年の冬にリーブルテックという印刷会社の埼玉工場を見学させて頂いたことがある。その際も思ったのだが、印刷機器はこれ以上開発しようがないと思われるほど技術開発がし尽くされ自動化が進んでいるが、文化や技術が頂点に達する時には、その技術自体が無用になるような新たな技術や文化が普及するもので、電子書籍の普及はこうした高度な印刷技術そのものを無用にしてしまうのだなぁと思った。
とは言え、紙の書籍や雑誌はまだまだ作り続けられるだろうし、印刷の仕組みが分かって、この出版技術講座の中でも最も実地に役立つ授業だった。
帰宅して、「ミラノ、愛に生きる」(ルカ・グァダニーノ監督、2009年)という映画のDVDを観た。ミラノの上流家庭のマダムを主人公に、一見、幸福そのものに見えた実業家の一族が、子ども達の結婚や留学、事業の躓きなどによって水面下の不協和音が次第に露になり崩壊していくというストーリーだ。各種の賞を受賞した作品だが、期待が大きすぎた為か私はさほど面白いとは思わなかった。
ただ、ふと気づいたのは、最近、観たり読んだりした映画や小説は、ヒロインが自分より年齢や社会階層が低い男性と結ばれて幸福になる、というストーリーが多いということだ。先週末に観た「暮れ逢い」(パトリス・ルコント監督、2013年)という映画も、ダイアン・ハイブリッジ作『あまりに年下の彼』(1998年)という小説もそうだった。私が子どもの頃の女の子のファンタジーは、どちらかと言えば恵まれない環境にいる少女が、年齢や社会階層が自分より上の「王子様」と結ばれて結婚する、というものだった。「ミラノ、愛に生きる」のヒロイン、エンマもそうしたシンデレラストーリーの体現者だったわけだが、イタリア人に、「上流」階級の一員になりおおせるという努力の末に、自分は本当は孤独だった事に気づき、一切を捨てて「年下の彼」の所へ行く、それが彼女にとっての「幸福」なのだ、という結末だ。女性が強く賢くなり、経済的・社会的に恵まれていることと、内面の幸福は必ずしも一致しないという事に気づくようになってきたから、こうしたアンチ・シンデレラストーリーが供給されるようになったのだと思う。
もっとも私自身は旧い型の人間で、古典的なシンデレラストーリー、恋愛と社会階層の上昇がセットになったファンタジーの方が好きではある。例えば「青いパパイヤの香り」(トラン・アン・ユン監督、1993年)がすぐに思い浮かぶ。1950~60年代のベトナムを舞台に、ヒロインのムイが少女の頃から仄かな恋心を抱いていた青年の家に奉公することになり、主人もムイに惹かれるようになり、裕福な婚約者と別れてムイをパートナーに選ぶという話だ。
2015年6月28日日曜日
「ユトリロとヴァラドン 母と子の物語」展で想ったこと
2015年6月7日(土)
親から愛されなかった子どもほど、親を慕い続けることがある。大人になった後も、老年になってからも。ヴァラドンとユトリロの母子関係はその典型だろう。
私はユトリロの作品は好きではない。嫌いとは言わないまでも、観る者を拒絶する彼の絵が心の琴線に触れことはない。「ユトリロとヴァラドン 母と子の物語」展へ行ったのは、母親のシュザンヌ・ヴァラドンの作品を観るためだ。彼女は人物画が得意で、描かれた人々は実に活き活きとして性格までも顔つきに表れている。「黒いヴィーナス」のような裸婦像は女好きの男性画家が描いたのかと思うほど生々しく、黒人の美女の体温や乳房の重量感、手足の筋肉の逞しさを間近に観ているように感じさせる。ヴァラドンは自分の生を十全に生きた人のようで――本当に「思うがまま」に生きられたのかは本人に訊いてみなければ分からないが――、熱い温かな血潮と大らかな感情が、どの作品からも伝わってくる。美貌と豊満な肢体でルノワールやロートレックなど一流の画家のモデルを勤め、彼らの恋人になったり絵を教わったり、2度の結婚と数多くの情事の中で画家として才能を開花させていったヴァラドンは、育児はほぼ自分の母親に任せきりだった。その寂しさからユトリロが十代からアルコール依存症になり、治療のために絵を描き始めたのは有名な話だ。
ヴァラドンは彼女なりに息子を愛していたし、それだからこそユトリロも母親を理想の女性として慕い続け、彼女の没後は描くより祈るほうが多かったという。ヴァラドンに私生児を産ませて省みなかったユトリロの実父のように、ヴァラドンも息子のことを全く省みなかったら、いっそユトリロは彼女を憎むなり諦めるなりしてきれいさっぱり親離れ出来たかもしれない。魅力的で愛情深く多血質のヴァラドンは恋と画業に心を奪われながらも、自分の母親や息子にも愛情を注いでいた。ただ、その愛情の量が息子にとってはあまりにも不足だったのだ。
出会う人々も出来事も貪欲に消化して自分の糧にしてしまうヴァラドンの作品と、自分の殻に閉じ籠って他人を拒絶するユトリロの作品群は互いに共鳴し合うこともなく、人気の少ない会場は寒々と感じられた。外に出ると雨はまだ降り続いていた。
この2人の母子関係について考えている間、マリア・テレジアを連想した。賢帝として名高く、情熱的な女性でもあり、舞踏会では徹夜で踊り明かしたり、初恋の男性と結婚して夫婦仲も睦まじく、16人の子どもを産み、彼女らをヨーロッパ各国の王室と縁組させてハプスブルグ家の隆盛を図った、公私共に精一杯、十全に生きた女性だった。ところが彼女の子ども達はあまり出来が良くないか、幸せとは言い難い結婚生活を送っていたりする。その典型がマリー・アントワネットだ。あれほど賢明な母親の娘がなぜあれほど愚かだったのか不思議に思うほどだが、あまりに多忙なマリア・テレジアは子ども達を愛してはいても一人一人に十分な愛情を注いでいる時間はなかったろう。もちろん、育児や教育は専属の乳母や教師が十分な世話をしてはいたろうが。結婚して他国に住み、親として君主としての圧倒的な力によって無言の圧力を加えていた母親から離れた子ども達が羽を伸ばして馬鹿な真似をしたくなる気持ちは良く分かる。
子どもを愛してはいても、それ以上に自分の生活を生きるのに忙しく、子どもが望むほどには十分な愛情を注いでやれない母親と、自分や夫の人生には不満足で、自分たちが叶えられなかった夢を子どもに託して過剰な愛情を注いだり、子ども自身の夢の実現を阻もうとする母親よりは、前者の方がはるかに良い親だとは思う。親自身の人生が充実していないと子どもに心理的に依存して、子どもの真の自立を妨げるからだ。ただシュザンヌ・ヴァラドンやマリア・テレジアのような並外れて自我が強く多忙な母親、というより圧倒的に強烈な個性の持ち主は身近にいる人々を何らかの形で犠牲にせずにはいられないのだ。それを「犠牲」とは感じない人もいれば、この人の個性に押し潰されるのはご免だと離れて行く人もいるのだろう。
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