2012年8月25日土曜日

レーピン展-人の顔、心、人生というドラマ

  昨日、Bunkamuraザ・ミュージアムの「レーピン展」を観た。久し振りに「絵を見たァ~」という気になった。お茶漬けや野菜と魚ばかりの食事が続いた後で、久し振りに美味しいステーキを食べて満腹した、という感じだ。レーピンの写実的な描写力もすばらしいが、構図がとても上手い。「樫の森の十字架行進」や「船曳き」のような戸外の群集を描いた作品を少し離れた位置から観ると、ドキュメンタリーフィルムのワンシーンである。ドラマチックな一瞬を写実的に捉えていて、次の瞬間には絵の中の人々が動き出すのではないかと思う。その点はカラヴァッジョに似ているが、彼の題材は神話や伝説のようなテーマ自体がドラマチックで、レーピンのはロシアの日常生活の一瞬を切り取ってドラマチックに見せるのだ。どのアングルから捉えるのが最も効果的か、という構図を決める才能は天性のものなのだろうか? デッサンを観ると、より良い構図を求めて習作を重ねたのが分かるので、努力の賜物でもあろうが、それだけではない天賦の才を感じた。

 この美術展へ行くまで、私はイリヤ・エフィーモヴィチ・レーピンの名前を知らなかった。行く前日に展覧会のホームページで「思いがけなく」(図)を見て、この絵の作者だったのか、と気がついた。小学生の時に読んだ『美しい絵』という世界の名画を紹介した本に、この絵と「ヴォルガの船曳き」が載っていた。この絵のことは何十年も忘れていたので、懐かしかった。
 「思いがけなく」は、革命家の帰還を描いている。革命活動に身を投じ、二度と家に戻って来ないのではないかと思っていた主人が突然、帰って来る。思わず立ち上がる老母、「あっ、パパ!」と言う男の子、「このおじさん、だぁれ?」と警戒心を浮かべる女の子。父親の顔を覚えていられないほど幼い時に、父は家を出て行ったのだ。この子の表情がとてもいい。レーピンは自分の3人の子ども達をよく観察していたなと思う。
 ピアノを弾く手を止めて夫を見る妻の顔が一番、複雑だ。喜んではいるのだろうが、「なぜ、もっと早く帰って来て下さらなかったの? もう帰って来ないものと、平和な諦めのうちに落ち着いた暮らしをしていたのに・・・・・・」と言ってはいないだろうか。
 母子家庭の団欒の場に突然、帰宅した夫・父親・息子に対する家族のそれぞれの思いが、表情や眼差し、動作から読み取れる。私は偶然その場に居合わせ、その家族の秘められたドラマを見てしまった、気になった。
 
 彼の観察力の鋭さは、肖像画などの人物画に遺憾なく発揮されている。絵の中から人物が身を乗り出して雄弁に語りかけてくるので、肖像画を観ているのではなく、当人と向き合っている気になる。心を病んだアル中の「ムソルグスキー」の赤い鼻とモシャモシャの髪。軍服に勲章を連ねた「工兵将校アンドレイ・デーリヴィク」は、波乱に飛んだ豊かな人生経験を、青年時代の恋と冒険を、やがて政界でも頭角を現して要職を歴任した経緯を、“お若いの”に楽しげに話す。自分のやりたい事、やるべきだと思った事を力一杯してきた人なので、自慢話の嫌味がなく、聞いていて楽しい。麗しの「ピアニスト、ゾフィー・メンター」は勝気で口達者、華やで力強い演奏が聞こえてくる。その人物の社会的な身分や趣味が一目で分かる服装や髪型、アクセサリーなどに目を留める観察力、服装の生地の厚みまでもが感じ取れる写実的な描写力、人の心の中に分け入り、その人物の真実の姿を引きずり出して来る洞察力。
 彼の画中の人物は、誰もが意思的な目をしている。異母弟のピョートル大帝に幽閉された「皇女ソフィヤ」の目には、怒りが燃えている。この絵も歴史の本の挿絵として見たな。没後100年経っても200年経っても作品が愛され続ける画家は、絵が上手いだけではだめなのだと、シミジミ思った。人間や物事の真実を見抜く心眼、個々の人物や出来事から普遍的な人間性や真実に気づく深い洞察力や、人間への愛情がなければいけないのだなぁと思う。

  こんなに感性の鋭い人は、きっと繊細で内気で、どちらかというと気が弱かったのではないかと思う。学生時代に下宿していた大家の娘と結婚しているのを見ても、そんな感じがする。きっと内弁慶で、そういう男性によくあるように子どもをとても可愛がったようだ。歴史画や名士の肖像画も素晴らしいが、人物画は家族を描いた作品が一番いい。ポスターピースの「休息-妻ヴェーラ・レーピナ」の、絵のモデルを勤めているうちに居眠りしてしまった妻を観る眼差しには、優しさと愛おしみが溢れていて、彼の目には妻がかくも美しく映っていたのだろうなぁというのがよく分かる。もともと美しい女性には違いないが、きっと絵ほどではなかったろう。彼女の神々しいまでの美しさと若さと安らぎは、レーピンの心情の反映である。
 絵は写実的な真実の姿ではなく、画家の眼差しを通して観た人間や自然の姿である。物事を観るレーピンの眼差し、「ヴォルガの船曳き」のような底辺の人々にも向けられた温かな眼差しが、私には心地よかった。人間嫌いのアーティストも沢山いるが、彼はきっと人間が好きだったのだろう。友人も大勢いたようだ。

 会場には、所々にレーピンの言葉が貼られていた。次の言葉が彼の絵をよく表している。
 「人の顔、心、人生というドラマ、自然の印象、自然の生命と意味、歴史の精神-これらが私たちの主題であると思います。」

2012年8月19日日曜日

夏休み



「草(so)」というレストランへ行った。千葉県の鴨川に住んでいる友人が、「カレーの美味しいお店が地元にあるから来ない?」と言ってくれたので、夏休みに遊びがてら行って来た。「こんな所にレストランがあるのかしらん」と思うような山奥だった。外観は古風な田舎家で、室内はコロニアル風だった。壁も、高い天井も白く塗られ、テーブルは昔の小学校の木製の机を大きくしたような使い込んだ感じだ。食器は民芸調というか東南アジア風だ。インドの高原の別荘に来たような気持ちになって、四角い窓から外を眺めると、棚田のある典型的な山村風景が、紅茶茶園のあるインドの高原に見えた(写真)。気だるい暑さと、開け放った窓から扉へと吹き抜ける涼風のなか、カレーで少し汗をかき、チャイのシャーベットで身体を冷やした。
 その友人が以前に送ってくれた「草」の自家製ジャムが美味しかったので、ブルーベリージャムと夏みかんジャムを買った。「草」のは家庭の手作りの味で、工場で大量生産している有名ブランドのジャムよりもいい。友人の家に帰り、私のお手製スコーンに「草」のジャムを、買ったばかりのブルーベリージャムと、友人が以前に買った苺ジャムを塗り、「ルピシア」の紅茶を淹れ、アガサ・クリスティの「ハロウィーン・パーティ」のDVDを観た。
 帰京して、帰宅の途中で八百屋へ寄ったら、柿や梨が目についた。駅前では、阿波踊りの長い長い行列が踊りながら商店街を練り歩いていた。「夏も終わりだな」と思った。夜空に太鼓と鉦(かね)の音がよく響いていた。

2012年8月14日火曜日

小説と映画の「おはん」

 先週末に、市川崑監督の「おはん」をテレビで観た。前日に宇野千代の原作『おはん』(新潮文庫)を読み終えたばかりなので、すっと「おはん」の世界へ入っていけた。いつもながら、市川監督が文芸作品を映像化する手腕は見事だ。小説の世界の真髄を捉え、おおむね原作に忠実だが時には原作にはないエピソードを加え、それが作者自身も気づかなかったかもしれない登場人物の深層心理や性格を表現している。
 『おはん』は、一言で言うなら「子は鎹(かすがい)」の物語だ。あるいは、1人の草食系男子を巡る草食系女子と肉食系女子の三角関係のドラマだ。プラスとマイナスは惹かれ合うので、肉食系女子が最後に勝利する。
 粗筋は、草食系男子の幸吉が、芸者遊びがもとで別れた妻、おはん(草食系)と再会し、密会を重ねるうちに、情婦のおかよ(肉食系)と別れて再びおはんと所帯を持とうとするが、その引越しの日に2人の間の息子が亡くなる。幸吉はおかよのもとへ帰り、おはんは1人で町を出る、というものだ。幸吉がおはんとまた暮らしたいと思った大きな理由の一つは息子への愛着だ。引越の夜におかよの家へ戻るぐらい、2人の女の間で気持ちが揺れていたのだから、子どもが亡くなってしまうと、男への執着心がよりが強いおかよの方へ惹かれ、からめ捕られていってしまうのだった。
 この、おかよさんは甲斐性者だ。芸者で、紺屋の旦那だった幸吉と深い仲になり、前の旦那から貰った家で同棲を始める。抱えの芸者から自前の芸者になり、自分でも置屋を営んでいる。昼は家事に勤しみ、倹約して積み立てた金で2階を建て増しして夫婦の居間を造り、そこで朝から幸吉にモーションをかけたりする。今は古道具屋になった幸吉の店へ手作りの菓子を差し入れたり、雨の夜はお座敷着のまま傘を持って幸吉を迎えにも行く。姪を養女にして芸者に仕込むが、深く慈しみもする。愛情を求めることにも与えることにも貪欲な、婀娜っぽい年増だ。
 元妻のおはんは正反対のキャラクターだ。おそらく親の薦めで幸吉と見合い結婚をし、幸吉が遊び始めて、家運を傾けるとかそんな状況になったのだろう、親に強いられて里へ戻り、出産をする。実家は代々の米屋で、弟夫婦の代になっている。出入りの多い賑やかな家の中で、おはんは仕立物をしながら息子とひっそり暮らしている。器量も人柄も月並みなコプ付きの出戻りに再婚の話はなく、内気で控え目なために浮いた話もない。いたって堅気な商家の女だ。
 静と動のエモーションの間で揺れ動く男の気持ちは、映画のほうがよく分かった。大原麗子が演じるおかよはいい女だけれど気が強すぎて、石坂浩二演じる幸吉を顎で使うところがある。姪が田舎から出てきたシーンで、姪の荷物を幸吉に運ばせたり、姪の顔を拭く手拭いを持って来させたりする。現代の一応「対等な」夫婦関係ではよくある光景だが、戦後間もない時期の男性にとっては時々やり切れなくなって、吉永小百合演じるおはんのような弱々しい女に会い、「俺は男だ。エライんだぞ」という感覚を取り戻したくなる気持ちが理解できた。小説では、そこらへんの微妙な心理がよく分からないのだ。題名が『おはん』だし、語り手の幸吉はおはんのことを良いふうに描写しているので、「じゃ、なんでおかよさんときっぱり手を切れないのさ」と、もどかしい。
 題名は『おはん』だが、これは「おかよ」の物語なのかもしれない。宇野千代自身の生き方は、おかよ=肉食系だ。それに、なぜ語り手が男性なのだろう。作者は女性なのに。
 女性が書いた小説を男性が映画化したことで、両性の心理がより深く理解できるようになっている。映画のラストシーンは、おかよの姪のお披露目の日だ。晴れの装いでお座敷へ出るおかよと姪の乗る人力車の後を、幸吉が走りながら着いて行く。親譲りの紺屋を潰し、男としての最低限の自立性を担保する砦だった古道具屋も畳み、芸者屋の旦那というか箱屋になりきった幸吉が、情婦のおかよの後を身も心も追い掛けて行く。幸吉という男のキャラクターや生き様を見事に表したシーンだ。小説では、相変わらず細々と古道具屋を営んでいることになっている。これはこれで鄙びた味わいがある。小説の語り口は淡々として細やかで、映画ではよりビビッドでドラマティックになっている。小説家が創り上げた世界を壊さずに自分なりの解釈を加え、物語や人物を展開させていく市川崑の手腕は本当に大したものだ。

 私が男なら、おはんもおかよもお断りだ。それは現代を生きる中年女の感覚でそう書くのであって、この小説世界に住む男だったら、生活のパートナーにはおはんを選ぶ。おかよの方が人間としては魅力的だが、女性にしろ男性にしろ、強烈な自我の持ち主は周囲の人を振り回すので、身近で長いこと一緒にいると疲れるのだ。自分なりの目標や個性がはっきりした人は、それに寄り添って自分を支えてくれるおはんタイプのパートナーと相性が良く、逆に、これと言った人生の核を持たない人は、明確な目標や価値観を持って生き、強い牽引力で生活に彩りを与えてくれる人と相性がよいのだと、自分自身や身近な人々を見ていても思う。『おはん』のストーリー展開と結末はよく練られており、身近にもこんな事があるなぁと思わせる。宇野千代の観察力の鋭さと人生経験の多様さも、本当に素晴らしい。

 ところで、映画ではユーモラスな狂言回しで、三角関係の緊迫した空気に息抜きを与えてくれるおばあさんが、「落語家の春風亭昇太師匠のおかあはんでっか?」と思ったくらい顔が似ていた。配役を調べたら、ミヤコ蝶々だった。名前だけは知っていて大女優だと思っていたら、漫才師でもあったのね。