思わぬ収穫はもう一つあった。ウィンスロー・ホーマーの絵(図)だ。ルソーの絵から受けた感銘や歓びは予期していたものだったが、ホーマーのは予期せぬ感動だった。会場の一番最後に展示されており、最後に強烈なパンチを食らって、「いや、参りました」という感じだった。
この絵のタイトルは「月光、ウッドアイランド灯台」だが、月は描かれていないし、灯台は画面の奥に光がポチリと光っているだけだ。波の表面に流れる月光の帯と、画面の上の空を照らす月の暈が「月」を、波の彼方に見える煙草の火のようなオレンジ色の点が「灯台」を暗示している。直接、対象は描かずに間接的なもので主題を暗示するという手法は俳句的だ。そして、そういう技法に感銘を受ける感性は、まったくもって「日本人」である。この絵を選んだメトロポリタン美術館の学芸員はそうした日本人の感性をも弁えてこの絵を選び、美術展のフィナーレを飾る作品としたのだろうか?
これはよく海を知っている人の絵だと思い、他にどんな絵を描いているのかとインターネットで検索したら、13年前の美術展で気に入って絵葉書を買った絵の作者だった。「夏の宵」という、やはり夜の海の絵だ。海岸で抱き合ってダンスをする2人の少女と、海面を照らす月光の帯が印象的な絵だ。
こういうことが最近、よくある。美術展でいい絵を観て、その画家の作品を調べると、以前に行った美術展でやはり気に入って絵葉書を買っていた絵の作者だった、ということが。
ホーマーの絵は鴨川の海を思い出させる。鴨川の海辺の高層マンションに住んでいる友人の家へ泊まりがけで遊びに行くことがあるのだが、その居間から見える夕暮れと夜の海はホーマーの絵そのままだ。だから彼は海が好きで、よく海へ行き、観察をしていたのだろうということがわかる。
以前、ヘレンドの陶器展で観た絵皿には海上の帆船が描かれていたが、帆に風をはらんだ船は今にも前へ進もうとしているのに、波はちっとも揺れ動いていなかった。「この絵を描いたマイスターは海を見たことがなく、想像で描いた」という解説を読んで納得したが、想像だけで描いた絵はどこか不自然で迫力がない。
同じ理由で、古い日本画の虎の絵にはあまり迫力がない。実際に虎を見た画家なんてあまりいなかったろうから仕方ないが。観る方も実物の虎は知らないから「虎」で通ってきたが、動物園でとはいえ虎を何度も見た現代人の目には「おそろしく大きな猫」に見える。
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