昨夜は蒸し暑くて、明け方まで寝付けなかった。昼のニュースで、関東地方の梅雨明けを知った。
数日前のニュースでは、北海道で秋刀魚漁が始まったことを知った。今日、近所の魚屋へ行ったら、新秋刀魚が売られていた。「秋刀魚」と書くぐらいだから秋の魚だとばかり思っていたが、漁は夏から始まっているのだ。旧暦では7月はもう秋だから、旧暦の感覚では確かに秋の魚だが。
これで季節が一巡したなぁと思った。私がきちんと料理を始めたのが昨夏の終わりで、魚や野菜や果物に旬があることを実感し始めたのはその時からだ。その時は刺身にできるほど新鮮な秋刀魚が、大量に安売りされていた。それから鯖の美味しい季節になり、「春の魚」と書く鰆(さわら)の季節に移り、秋刀魚はいつの間にか解凍物しか見かけなくなった。血で濁った氷水の中に沈んでいる「解凍サンマ」は、いくら安くても買う気がしなかったが、今日見た新鮮な秋刀魚は身が銀色に光っていて食欲をそそった。また秋刀魚の季節が来たのか、と思った。
私は果物が好きだが、昨夏まではあまり果物を買わなかった。林檎を一袋買ったとしたら、その日のうちに全部食べてしまうような無茶な食べ方をしてしまうので、不経済に思えたからだ。だが昨夏、身体を壊して医者から果物を薦められて以来、身体にいいんだから、という大義名分の下によく買うようになり、そうするともともと好きな物だから、何は置いても果物を買うようになった。なかでも桜ん坊は一番好きな果物だが、毎年、2、3度食べたかと思うと、もう店頭から消えているので、今年は店頭に出回っている間は食べようと思い、この一月は桜ん坊を食べ続け、さすがに少し飽きて来た。と言いつつ、今日もアメリカンチェリーを買った。林檎のように一年中出回っている物なら、そう執着はしないだろうけれど。
今週の水曜日には、東京會舘のクッキングスクールへ1回だけの体験入学をした。東京會舘のベテランコックが教えて下さるというので、前々から楽しみにしていたものだ。献立は、ローストチキンとソテーポテトとフルーツサラダだ。ローストチキンは、助手のコックが作って下さるのを見ているばかりだった。家庭で日常的に作る物でもないので、こういう作り方をするのか、という参考になった程度だが、ソテーポテトとフルーツサラダは翌日から家で作ってみた。
ソテーポテトは、茹でたじゃが芋を油で揚げてバターであえる、という三段構えの調理法だが、手間をかけるだけの甲斐はある味だ。教室では仕上がりにパセリを振るように教わったが、私は好物のローズマリーの粉を振り、その香りと味わいを楽しんでいる。
フルーツサラダで特に参考になったのは、マヨネーズの作り方だ。自分でも作ったことが2回あるが、時間がかかり過ぎるか上手くいかないかで、自家製マヨネーズは諦めていたのだが、教室では簡単に出来たので驚いた。翌々日に家で作ってみたが、上手くいった。これからはマヨネーズは家で作ろうと思った。
料理教室の利点は、調理の過程を目の前で見られることだろう。料理の本だけを頼りに調理していると、細々とした疑問や矛盾点にぶつかることがよくあるのだ、ことに初心者は。
初めて作る料理は本に添えられた写真がおおいに参考になるが、その写真とレシピが矛盾していることが時にはある。ベトナム式バケットサンドを初めて作ったとき、レシピには「フランスパンに、縦半分に切り込みを入れ」とあるのに、見開き頁に載っている写真のバケットサンドには横半分に切り込みが入っている。その本の表紙に写っているバケットサンドには縦に切り込みが入っている。どちらが正しいのか? 切り込みが縦に入っていようと横に入っていようと、味に変わりはなかろう。だが私は「ベトナム式」バケットサンドを作りたいのだ。どちらが本場風なのだろう。
その後ベトナム料理店で見たバケットサンドには、縦に切り込みが入っていた。他のデリカッセンも兼ねたパン屋で見たフランス風のバケットサンドは、縦に切り込みが入っている場合もあれば、横に入っている場合もあった。結局、どちらでもいいのだろう。
ということで、今ではこの類いの些細な矛盾や疑問はあまり気にしなくなったが、初めのうちは戸惑った。マッシュポテトの作り方に「じゃがいもを塩ゆでし」と書いてあるが、じゃがいもは水から茹でるのか、お湯を沸かしてから鍋に入れて茹で始めるのか、火加減はどれぐらいか、何分ぐらい茹でればいいのか。
こうした経験は、独習で料理を始めた人がたいてい経る過程だろう。先日読んだ『文士厨房に入る』(みすず書房)は、そうした点を突いていて面白かった。ジュリアン・バーンズという英国の作家の料理エッセイ集だ。男ばかりの兄弟で料理は母親任せという、ありがちな家庭環境で育った男性が、独り暮らしで必要に迫られて料理を始め、今では女性のパートナーと暮らしているが料理は彼の担当で、ホームパーティーでは手料理でもてなすようにまでなったが、その過程で感じた様々な疑問や失敗をユーモラスに書いている。「中ぐらいの玉葱」とはどの位の大きさの玉葱を指すのか? 「掌一杯」という量は、子どもと(サーカスの見世物小屋の)大男ではまったく違うだろう、などなどの突っ込みに共感しつつ読んだ。
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