2013年3月24日日曜日

ラファエロの「大公の聖母」

 先週の金曜日に国立西洋美術館のラファエロ展へ行った。ポスターピースの「大公の聖母」を観て、いいなぁと思って行ったのだが、この作品が一番の呼び物で、美術展でもこの絵の前は人だかりがしていた。
ラファエロはメジャー過ぎて特に興味も湧かなかったのだが、「大公の聖母」を観て、なぜ彼があんなにも高く評価されてきたかが分かった。優美さ、色彩の黎明さ、確かなデッサンに基づく写実性―要するにとてもイタリア的な、ルネッサンス的な画家なのだ。
 彼の作品の最大の魅力と特徴は「優美さ」だろう。法王や枢機卿といった高位の聖職者や貴族から好まれたのもその優美さ、上品さゆえだろう。それが最もよく発揮されるのが聖母像で、自然と聖母子像の注文も多かったのだろう。
 「大公の聖母」はトスカーナ大公フェルディナンド3世が終生愛好していたことから付けられた名だが、この作品が感動を与えるのは、一つにはトスカーナ大公の愛着ぶりのせいだろう。美術の目利きの筈の大貴族が片時も、旅行中も、ナポレオン軍の侵入にる亡命中も持ち歩いていたと聞けば、「そんなにも魅力のある作品なのか」という感動が予めインプットされ、現物を観ると確かに素晴らしい作品なので感動が倍増する、という仕組みになっている気がする。
 「モナ・リザ」が人に感動を与える理由の一つも、作者のレオナルド・ダ・ヴィンチが引越しの多い人生で終生持ち歩き、加筆を続けていていた、というエピソードにあると思う。私生児のレオナルドは5歳までは母親に育てられたが、それ以降は父親に引き取られたので、真の母性を、「限りない受容」を求める心情が「モナ・リザ」に修正を加え続けさせ、その執着が観る者の目にリアリティを持って迫ってくるのかもしれない。
 ラファエロも子どもの時に母親を亡くしたので、限りない受容と慈愛を求める気持ちが「母親」を理想化させ、聖母子像に昇華され、それが人の心を打つのではないか、と思った。実際の母子関係は美しいばかりのものではないし、女性はけっこう意地が悪かったりするので、彼の「聖母像」はけっして生身の女性ではなく、男性が望む「理想の女性」のエッセンスだ。
 
 美術展を見終わって、「ラファエロはどんな人生を送ったのだろう」と思った。ミュージアムショップに彼の伝記があったので買った。ヴァザーリの『芸術家列伝』の抄訳(白水社)だ。帰りの電車の中で読み始めたが、実に退屈な伝記だった。金曜の夜ということで1週間分の緊張がほぐれたせいもあり、眠くなった。あまりにもラファエロを褒め称えすぎているのだ、作品も人物も。面白かったのは、彼が女好きで、短命だったのも放蕩が祟ったせいだ、というエピソードくらいだ。
 史料としては実に貴重な、しかし娯楽用の読み物としては退屈な本だと思ったが、ボッティチェルリやアンドーレア・デル・サントなど他の画家の伝記はわりあい面白かった。ちゃんと画家の人間としての欠点や作品の短所にも触れているので。伝記に取り上げられるほどの芸術家だから優れた人物であるのは分かっている。その「マエストロ」達の欠点を知ることで読者は人間味を感じ、共感を覚えるのだ。きっと、ヴァザーリはラファエロに心酔していたのだ。だから欠点が描けなかったのだろう。