2013年12月31日火曜日

柚子の枝

 12月30日の夕方、買い物に出た。近郊の農家から作物を売りに来ている屋台で柚子を買った。榊ぐらいの長さの枝に柚子が2つ生っている。それを机に飾った。白い壁に柚子の黄色と葉の緑のコントラストが美しい。柚子の香が仄かに香る。果樹の中で、柚子の香りほど好きなものはない。

モネの美の世界-国立西洋美術館、モネ展

  12月27日(金)は仕事収めで、午後は職場の大掃除だった。その後、国立西洋美術館の『モネ、風景をみる眼-19世紀フランス風景画の革新』 を観た。最近は夜間開館でも混んでいることがあるが、この日は空いていた。仕事収めの日に美術館に来る人なんて、本当に絵が好きなんだろう。ふだんの夜間開館日は私と同じく仕事帰り風の方か、学生が多いが、今回は30、40代のご夫婦も多かった。出口ではキャリーバッグを引く女性を見かけた。帰省の電車に乗る前の時間を都合して来たのだろうか。
 出展作品は国立西洋美術館とポーラ美術館の所蔵品のため以前に観た物もあり、目新しさはなかったが、新たに知ったことや気づいたこともあり、有意義だった。新たに気づいたことの一つは、モネの作品の題材の斬新さだ。蒸気を上げて田舎道を走る機関車を描いた「貨物列車」(図)は、厳格に写実的ではないのに対象をよく捉えていて写実性があり、本当に遠くに走る蒸気機関車を見た気持ちがした。そして、コンパートメントに差し向かいで座るホームズとワトスンの姿が浮かんだ。地方の事件現場に赴く途中で、車窓に広がる草原、点在する民家や電柱を眺めながら列車の速度を推理し、事件に付いて語り合い、報道記事を読む。彼らが乗っているのは貨物列車ではなく客車だけれど。煙を上げる蒸気機関車や工場の煙突、整備された街並みを走る自動車といった郷愁を誘う景色の原風景は19世紀に出現し、当時としては最新技術の産物で、それを描くのがいかに斬新なことだったか、突然、実感できた。ギリシア神話や聖書の一場面でもなく、神の栄光を讃えるためでも教訓を垂れるためでもなく、ただ目に映る景色をありのままに描こうとする姿勢が、宗教画や歴史画の伝統に縛られた保守的な人々にはショッキングで、拒絶反応を引き起こした経緯も。
 モネが約80年にわたって描いた様々な作品を観た後で、晩年の睡蓮の池の絵を観た時は感動した。旅先の目新しい景色が画家の絵心をそそるのはよく分かるし、優れた作品も多いが、朝な夕な見慣れた風景や人々を描いた作品ほど心を打つものはない。「睡蓮の池」シリーズはまさにそうした作品群だ。「自分の最高傑作はこの庭だ」とモネは言ったそうだが、画家が設計した「絵のような庭」、モネの美意識が結集した広い庭園だ。画家達の妻や恋人の肖像画や写真を見ると、その画家が好んで描く美人像に似ていることがよくある。彼の美意識にマッチした容貌ゆえに愛されたのか、彼女への愛ゆえにその容貌が美人の原型になったのかを考えたりするが、モネの庭とそれを描いた連作にも同様に合わせ鏡のような作用を感じる。無限に反復し合うモネの美の世界に私は立ち会っているわけだ。
 1年のいい締めくくりができた。昼の大掃除の疲れで、鑑賞の最後のほうはいくぶん疲れてお腹も空いていたけれど。

2013年12月23日月曜日

カイユボット-ディレッタントの美学

 12月20日(金)にブリヂストン美術館の『カイユボット展』へ行った。その印象を要約すると、「都市のディレッタントの美学」だ。
 ギュスターヴ・カイユボットは若くして莫大な遺産を継いだパリジャンで、趣味三昧の生涯を送った。画業は彼の美的活動の一部で、パリと地方に広い邸宅を構えて園芸とボート遊びに熱中し、庭園の草花やボート遊びをする人々を描いた。印象派の作品を収集し、画家達を援助し、印象派展の開催の肝煎をした。「趣味に生きた」人生で、これを羨まない人がどれだけいるだろう?
 弟のマルシャル・カイユボットと仲が良く、趣味や行動を共にしたが、マルシャルの方は写真に熱中して、ギュスターヴが描いたのと同じ光景を写真に残している。都市開発
によって新しくなったパリ、彼らが住んでいた高級住宅街の街並み、その住人の淑女紳士、彼らのために働く労働者、あるいは室内の家族や友人達のモノクロ写真は、社会的な記録として価値があるが、そうした光景をギュスターヴは正確な筆致で描いている。
 彼の作品では室内画のほうが好きだ。「昼食」や「ピアノを弾く若い男」のように家族を描いた作品が最も迫真性を持っている。どんな画家でも身近な人々や見慣れた光景を描いた作品が一番生き生きしていると思うが、カイユボットの場合は特にそう思う。たぶん彼は内気だったのではないか。豊かな教養と趣味を共有する都市のブルジョア達との一種閉じられた世界で生きた彼には、自宅で寛ぐ家族や友人という題材が一番合っていると思う。
 それと矛盾するようだが、この展覧会で一番印象に残ったのは「シルクハットの漕ぎ手」(図)だ。街から来たばかりの紳士がシルクハットを被ったまま、郊外の川でボートを漕いでいる。紳士は郊外のレジャーを楽しんではいるが、根っこは都会に、パリに属している。それはカイユボット自身の生活のあり方を表しているように見える。彼は地方に別荘を持ち、地方議員も務めているが、根はパリジャンだ。パリの洗練が骨の髄まで染みて、財産と教養に恵まれた人の謙虚さ、控え目さが感じられる。彼の作品にはゴッホの魂の叫びやゴーギャンの鮮やかな色彩、フリーダ・カーロの生々しい自己告白、ダリの強烈な自己顕示はなく、「魂を揺さぶられる」と言うこともない。悪く言えば旦那芸、ディレッタント的だが、それに収まり切らない腕の確かさや視点の斬新さがある。
 
 ところで、マネの絵を観るといつもゾラの小説を連想する。といっても代表作しか読んでいないので、繰り返し読んだ『ナナ』(新潮文庫など)の場面が浮かんで来る。カイユボットの絵を観ても『ナナ』を思い出す。ナポレオン三世治下のパリの高級娼婦ナナを主軸に、彼女の顧客の貴族やブルジョワジーとその妻や娘達、ナナの出自と同じ労働者達-役者、女中、娼婦達が交差する物語世界が、マネやカイユボットの作品を通してよりリアルに浮かんで来る。