2010年7月17日土曜日

梅雨明けに思う

昨夜は蒸し暑くて、明け方まで寝付けなかった。昼のニュースで、関東地方の梅雨明けを知った。
数日前のニュースでは、北海道で秋刀魚漁が始まったことを知った。今日、近所の魚屋へ行ったら、新秋刀魚が売られていた。「秋刀魚」と書くぐらいだから秋の魚だとばかり思っていたが、漁は夏から始まっているのだ。旧暦では7月はもう秋だから、旧暦の感覚では確かに秋の魚だが。

これで季節が一巡したなぁと思った。私がきちんと料理を始めたのが昨夏の終わりで、魚や野菜や果物に旬があることを実感し始めたのはその時からだ。その時は刺身にできるほど新鮮な秋刀魚が、大量に安売りされていた。それから鯖の美味しい季節になり、「春の魚」と書く鰆(さわら)の季節に移り、秋刀魚はいつの間にか解凍物しか見かけなくなった。血で濁った氷水の中に沈んでいる「解凍サンマ」は、いくら安くても買う気がしなかったが、今日見た新鮮な秋刀魚は身が銀色に光っていて食欲をそそった。また秋刀魚の季節が来たのか、と思った。

私は果物が好きだが、昨夏まではあまり果物を買わなかった。林檎を一袋買ったとしたら、その日のうちに全部食べてしまうような無茶な食べ方をしてしまうので、不経済に思えたからだ。だが昨夏、身体を壊して医者から果物を薦められて以来、身体にいいんだから、という大義名分の下によく買うようになり、そうするともともと好きな物だから、何は置いても果物を買うようになった。なかでも桜ん坊は一番好きな果物だが、毎年、2、3度食べたかと思うと、もう店頭から消えているので、今年は店頭に出回っている間は食べようと思い、この一月は桜ん坊を食べ続け、さすがに少し飽きて来た。と言いつつ、今日もアメリカンチェリーを買った。林檎のように一年中出回っている物なら、そう執着はしないだろうけれど。

今週の水曜日には、東京會舘のクッキングスクールへ1回だけの体験入学をした。東京會舘のベテランコックが教えて下さるというので、前々から楽しみにしていたものだ。献立は、ローストチキンとソテーポテトとフルーツサラダだ。ローストチキンは、助手のコックが作って下さるのを見ているばかりだった。家庭で日常的に作る物でもないので、こういう作り方をするのか、という参考になった程度だが、ソテーポテトとフルーツサラダは翌日から家で作ってみた。
ソテーポテトは、茹でたじゃが芋を油で揚げてバターであえる、という三段構えの調理法だが、手間をかけるだけの甲斐はある味だ。教室では仕上がりにパセリを振るように教わったが、私は好物のローズマリーの粉を振り、その香りと味わいを楽しんでいる。
フルーツサラダで特に参考になったのは、マヨネーズの作り方だ。自分でも作ったことが2回あるが、時間がかかり過ぎるか上手くいかないかで、自家製マヨネーズは諦めていたのだが、教室では簡単に出来たので驚いた。翌々日に家で作ってみたが、上手くいった。これからはマヨネーズは家で作ろうと思った。

料理教室の利点は、調理の過程を目の前で見られることだろう。料理の本だけを頼りに調理していると、細々とした疑問や矛盾点にぶつかることがよくあるのだ、ことに初心者は。
初めて作る料理は本に添えられた写真がおおいに参考になるが、その写真とレシピが矛盾していることが時にはある。ベトナム式バケットサンドを初めて作ったとき、レシピには「フランスパンに、縦半分に切り込みを入れ」とあるのに、見開き頁に載っている写真のバケットサンドには横半分に切り込みが入っている。その本の表紙に写っているバケットサンドには縦に切り込みが入っている。どちらが正しいのか? 切り込みが縦に入っていようと横に入っていようと、味に変わりはなかろう。だが私は「ベトナム式」バケットサンドを作りたいのだ。どちらが本場風なのだろう。
その後ベトナム料理店で見たバケットサンドには、縦に切り込みが入っていた。他のデリカッセンも兼ねたパン屋で見たフランス風のバケットサンドは、縦に切り込みが入っている場合もあれば、横に入っている場合もあった。結局、どちらでもいいのだろう。
ということで、今ではこの類いの些細な矛盾や疑問はあまり気にしなくなったが、初めのうちは戸惑った。マッシュポテトの作り方に「じゃがいもを塩ゆでし」と書いてあるが、じゃがいもは水から茹でるのか、お湯を沸かしてから鍋に入れて茹で始めるのか、火加減はどれぐらいか、何分ぐらい茹でればいいのか。

こうした経験は、独習で料理を始めた人がたいてい経る過程だろう。先日読んだ『文士厨房に入る』(みすず書房)は、そうした点を突いていて面白かった。ジュリアン・バーンズという英国の作家の料理エッセイ集だ。男ばかりの兄弟で料理は母親任せという、ありがちな家庭環境で育った男性が、独り暮らしで必要に迫られて料理を始め、今では女性のパートナーと暮らしているが料理は彼の担当で、ホームパーティーでは手料理でもてなすようにまでなったが、その過程で感じた様々な疑問や失敗をユーモラスに書いている。「中ぐらいの玉葱」とはどの位の大きさの玉葱を指すのか? 「掌一杯」という量は、子どもと(サーカスの見世物小屋の)大男ではまったく違うだろう、などなどの突っ込みに共感しつつ読んだ。

2010年7月10日土曜日

ゴーギャンの『ノアノア』を読んで

ゴーギャンの『ノアノア』(ちくま学芸文庫)を読んだ。彼の第1回目のタヒチ滞在記だが、描写力が素晴らしい。話の運び方が強引で分かりにくかったり、自分に都合の悪い点はぼかして書いてあったりして、不誠実な感じを受ける箇所も間々あるが―書きにくい事ならまったく触れなければいいのに、中途半端に触れているので―、そんな事はどうでもいいと思わせる迫力がある。
彼は画家、「観る人」だ。「書く人」、作家ではない。だが並みの作家が及びもつかぬ迫力でタヒチの風物を、人々を描き出す。彼の観たタヒチは、その絵画と同じく強烈な陽射しと原始性と花々の香りに満ちている。
ちなみに「ノアノア」は、「芳しい香り」という意味のタヒチ語だ。

ゴーギャンは1891年6月から2年間、タヒチの人々と共に暮らし、絵を描いた。現地人の妻を娶り、集落の人々と共にカヌーを漕いでマグロ漁へも出る。ゴーギャンが釣上げた大きなマグロは頭を棒で殴り付けられ、カヌーの中でのたうち回る。
「多面のきらきらする鏡に姿を変えたその体は、千の火の煌めきを散らしていた。」
どうです、この描写力! 鮮烈な映像が浮かんで来るではありませんか。
夕方になり、漁を終えたゴーギャン達は帰路を急ぐ。
「熱帯の夜は早い。夜の先を越さねばならなかった。二十二本の精悍な腕が櫂を海につっこみ、漕ぎ手は、気を奮い立たせるために、調子をとって叫んでいた。我々のカヌーのうしろに、青白い水跡が開いていた。」
力一杯櫂を漕ぐ11人の男達、波を蹴立てて進むカヌー、船尾に表れては消えていく白い波の筋が鮮明に浮かんで来る。

2010年7月6日火曜日

カポディモンテ美術館展


今日は国立西洋美術館のカポディモンテ美術館展へ行った。ナポリのカポディモンテ美術館の、ルネッサンスからバロック期のイタリア美術の作品展だ。ローマ法王となったアレッサンドロ・ファルネーゼが始めたコレクションが土台となっているためか、宗教画が主体のお行儀のいい絵ばかりだった。ファルネーゼ一族の勢力誇示の一環として、その教養や財力の高さを示すために始められたコレクションなので、聖職者や貴族達に安心して見せられるような品のいい題材や宗教画ばかりなので、印象派以降の個性や主張を押し出した作品に馴れていると、大人しいというか物足りない感じもした。加えてファルネーゼ家の領地だったパルマ出身の画家を贔屓にしていたので、イタリアの郷土色を濃く感じさせた。
そうして宮殿を飾るべく収集・発注された絵はサイズが大きく、描かれた人物も画面一杯に躍動感のあるポーズを取っているので、この絵を展示するには絵の迫力に負けない広さと華麗さのある空間が必要だという感じがして、四角く白い美術館の展示室がいかにも狭苦しく感じられた。なんだか動物園の虎を想わせた。鉄格子の向うをひっきりなしに右左に行き往している虎を見た時、かつて彼の周りに広がっていた広大な山野が浮かび、狭苦しい檻の中に囚われた獣の焦燥が伝わって来たものだ。

そう言えば昨日、『パンダの飼い方』(白輪剛史著、PHP研究所)と言う本を見かけた。パンダやライオンなど、個人では飼えないか飼うのが難しい動物の飼育や購入の方法について書かれた物だ。大方の読者にとっては、「飼えないのは分かっているけど、もし飼えたら…」という空想の羽を広げて楽しむ本だろう。

同時開催の「オノレ・ドーミエ版画展―『カリカチュール』と初期の政治諷刺画―」へも行ったが、権力者への風刺は当時の人々には痛烈に面白かったろうが、1半世紀が経ち、当時の社会状況を知らない私が見てもピンと来ない。まるで気の抜けたコーラだ。学生時代にホット・コーラと言う飲み物があると聞いて、コーラを鍋で温めて飲んでみたら、たんなる極甘の砂糖水だった。彼の風刺画で今見ても面白いのは、エゴや自惚れと言った人間の普遍的な悪癖を嘲笑った作品だろう。

それと同じでキリスト教の宗教画は、仏教の文化圏で育ち、かつ無神論者の私には何かピンと来ないのだ。それよりは美しい若者や子どもを描いた、誰にでも分かる作品のほうに惹かれた。と言うわけで、ポスターピースのパルミジャニーノ作「貴婦人の肖像」(上図)が一番いいと思った。パルトロメオ・スケドーニの「キューピッド」も、幼児のふっくらした身体つきの愛らしさがうまく表現されていて良かった。

美術鑑賞の後はアメ屋横丁で買い物をした。例によって食材ばかりだ。実は絵を観ながら、夕食の献立を考えていた。今日はアレクサンドロス大王の誕生日なので(それを口実に)ご馳走風にしたいと思っていたのだ。と言うわけで、晩餐(?)はイカスミのスパゲティ、トマトとモッツァレラチーズのサラダ、柘榴のジュース、白ワイン、レモンタルト、米国産と日本産の桜ん坊、紅茶だった。イカスミのスパゲティを食べたのは初めてだが、期待していたほどの味でもなかった。だが全体としては満足した、美味しいご馳走だった。
ちなみに明日はシャガールの誕生日だ。おまけに七夕だ。この調子でいくと、一年中ご馳走の口実には事欠かない。

2010年7月2日金曜日

マネとモダン・パリ展


最近、私はパリづいている。林芙美子の『下駄で歩いた巴里』を読み終えたばかりだし、今日は三菱一号館美術館の「マネとモダン・パリ」展へ行った。三菱一号館はジョサイア・コンドルの設計で、東京都庭園美術館と同じく建物自体に歴史的な価値がある。展示室と展示室をつなぐガラス張りの廊下から見下ろす中庭も、いい目の保養になった。この中庭は丸の内のビル街の谷間に造られた物で、地上からの眺めより2階、3階から俯瞰的に眺めるほうがより素晴らしさを味わえる立体的な造りで、人工の美の巧緻を感じさせるものだった。
都市の中の美術館をコンセプトとしたこの美術館の開館記念展の第1弾として、パリに生まれ、パリを描いたマネの代表作と、同時代のパリを描いた絵や写真を展示したのが当「マネとモダン・パリ」展なのだが、ゾラやモーパッサンの小説を彷彿とさせる、パリが世界の都であり、芸術の都であった時代の雰囲気と、明治期の煉瓦の洋館が醸し出す独特の雰囲気が呼応し合い、不思議な効果を挙げていた。
と言っても、マネを特に好きという訳ではない。マネは日本人が最初に触れる洋画の典型で、大御所過ぎて食傷気味だからだ。それで大した期待も持たずに行って、と言うのは銀座で買いたい物が幾つかあったので、買い物と美術鑑賞とどちらが主体だか分からない心持ちで出掛けたのだ。
だから特に深い感銘は受けなかったが、さすがマネ、素晴らしいとは思った。ポスターピースの「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」(上図)と、「ラティユ親父の店」は殊に良かった。前者は画家であり、後にマネの義妹となったベルト・モリゾの肖像で、モデルと画家の間で交わされていたであろう親愛の情や同業者としての尊敬が画面から漂って来る秀作だ。後者はマネが贔屓にしていたガーデン・レストラン「ラティユ親父の店」での、一組のカップルを描いたものだ。晴れた午後、戸外のテーブルで語り合う若い男女、女の顔を覗き込む青年の生き生きした表情は、誰もが通る青春の恋の喜びの一瞬を捉えている。
ところで鑑賞の後半からお腹が空いてきた。空腹と疲れを引きずって美術館を出て、銀座などで予定した買い物を済ませて帰りの電車に乗った頃に、マネの「レモン」が浮かんで来た。一個のレモンを描いた小品で、別段マネでなくとも描けそうな変哲もない物だが、妙に惹かれた。絵葉書を買っておけば良かったと思った。

ふだんは和食党だが、洋画展へ行くと洋食が食べたくなるので、今晩はスパゲッティにすることにした。家の近くのスーパーに寄ったら、箱詰めのトマトが売られていた。真っ赤に熟して艶々したトマトがいかにも美味しそうで、それでも普段なら迷うところだが、疲れて判断能力も鈍っているところで一箱買った。これでトマトソースを作り、オムレツやピザに使うつもりだ。
その他、今日は沖縄の物産館「銀座わしたショップ」で、宮古島産のドラゴンフルーツのジャムなどを買い、山形の物産館「おいしい山形プラザ」で桜ん坊の酢漬けを買った。ドラゴンフルーツジャムは明日のブランチに―明日も寝坊するに決まっているので―食べる予定だ。
このようにして、私の思考と生活は食事を中心に回っていく。