2010年11月23日火曜日

チャーカー・ラボンを作る

今日は勤労感謝の日。私も家事に勤しんだ。もっとも私の「家事」は料理とその準備、後片付けが大半を占めている。
ブランチの後、夕飯の下準備に取りかかった。今晩のメニューはチャーカー・ラボン。ターメリックやヌクマムで下味を付けた魚の揚げ煮だ。銀座のベトナム料理店「ラ・スコール」で初めて頂いて、ディルや細葱も一緒に煮ているのがユニークだと思った。今日、これを作りたいと思ったのは、ディルを使った料理を作りたかったからだ。私がベトナム料理にはまるのは、ハーブの使い方がとても巧みだからだと改めて気が付いた。
付け合せにとヌクマムを使ったベトナム版の大根と人参のナマス、デザート用に姫林檎のヌクマムシロップ漬けを作った。この2つは、最近買った鈴木珠美さんの『ベトナムおうちごはん』(扶桑社)に載っていたレシピだ。
目鯛の切り身に下味を付け、ナマスと姫林檎のシロップ漬けを作ったところで疲れてしまった。お茶で一服してからアイロンがけをし、洗濯と入浴の後でラジオをつけたら、北朝鮮と韓国の砲撃事件が流れた。韓国軍が黄海で軍事演習をしていることに対する対抗措置として北朝鮮軍が大延坪島を砲撃し、韓国軍も北朝鮮軍の陣地を砲撃した。韓国軍兵士2名が亡くなり、民間人にも負傷者が出たという。外交官は憧れの職業だが、こういう非常時には休日も夜もなくなって大変だろうなぁと思う。
そんなニュースを聴きながら、チャーカーを作った。揚げ煮にした魚とディルと細葱を、ブンという米粉で作った細麺に乗せて頂いた。ブンを家で作ったの初めてで、素麺によく似た味で美味しかった。

2010年9月18日土曜日

ベトナムフェスティバルへ行く

今日はベトナムフェスティバルへ行った。ベトナムの食と文化と音楽を紹介し、もって日越の交流を図ろうという催しで2008年から始まった、そうだ。今年は9月18日と19日の開催で、会場は代々木公園だ。
私の目的は、ベトナムの雑貨と食材を買うことだった。フォーを食べる時に使うアルミ製のレンゲが前から欲しかったのだが、なかなか見つけられないので、そのレンゲと、フォーや目新しいトロピカルフルーツなんぞがあったらそれも買い、旅行会社のパンフレットがあれば頂いて来よう、という軽い気持ちだった。思いの他の盛況で、休日のひとときを楽しめた。
東京を中心としたベトナム料理とタイ料理のレストランが模擬店を並べ、一部にはアオザイや雑貨や食材の模擬店もあった。都内にこんなにベトナム料理店があったのか、ベトナムに関心がある方がこんなにいたのかしらんと思ったほどの人出で、中でも一番繁盛していたのがエスニック食材の店だ。小さなテントは客で一杯、店員は次々にさばけてゆく商品の補充に大わらわで、レジの前は行列だった。ここでフォーとジンジャーティー、レトルトの「サイゴン風チキンカレー」を買い、他の様々な店でアルミ製のレンゲと柄の長いスプーン、ドリアンとランブータン、ベトナム菓子を買い、ベトナム旅行のパンフレットを集め、ベトナム料理研究家の伊藤忍さん達の模擬店の「肉団子入りつけ麺」で遅い昼食にした。甘辛いつけ汁が美味しかった。

野外ステージでは様々なアトラクションが行われていたが、私はアオザイショーの後半と「オペラ 日越超絶友好歌劇団」を観た。この「歌劇団」のメンバーは、なんと3名だった。中国的な大仰なネーミングに、こちらの方が恥ずかしくなってしまった。日本人のソプラノ2名―その内の1名はひょっとしたらメゾ・ソプラノかもしれないが―と、ベトナム人らしき男性1名で、オペラとミュージカルの名曲を5曲歌った。ソプラノ達は良かったが、男性のほうは声量はあるのだが、上手いとは言い難かった。発声法がオペラ歌手のものではないようで、謎の人物だ。しかし、ベトナムに関りのある曲を歌ったのは彼だけだ。彼はミュージカル「ミス・サイゴン」の曲を歌った。他は欧米の歌だった。ベトナム人のオペラ歌手が浪々と歌うベトナムの名曲、を期待していたので拍子抜けしたものの、オペラ歌手の歌を生で聴くのは数年ぶりだったので、思いのほか楽しんでいた。最後の「カルメン」の「ハバネラ」は特に良くて、心から拍手を送り、浮き浮きした気持ちで席を立って、会場を後にした。

帰りがけに明治神宮へ寄った。先日、通訳や旅行会社の方と話した折に、外国人が特に喜ぶ観光スポットとして明治神宮が挙げられ、「どこがそんなにいいのだろう」と思っていたので寄ってみた。
なるべく外国人の、ことに石やレンガやコンクリートの建造物に馴れた欧米人の眼差しで眺めようとしたので、ふだんは見慣れた木造の大きな鳥居もエキゾチックに見えた。都心にあんなにも深く広大な緑の木立ちがあるということだけでも大したものだ。鎌倉の鶴岡八幡宮にでも行った心地がした。
「神社で結婚式なんかがあると、(外国の)女の人なんか喜んで必ず写真を撮るよ」と、先述の通訳氏が言っていたが、その神前結婚式が行われていた。以前に見たことがあるので、結婚式もさることながら、その場に居合わせた外国人達、ことに白人の反応を見るほうが興味深かった。1人の白人の女性は、新婦新郎とその親族達の短い行列を熱心に見つめていた。

帰宅後、ベトナム旅行のパンフレットを広げて、思うさま机上のプランに耽った。旅で一番楽しいのは、この段階だろう。

2010年9月16日木曜日

栗の渋皮煮

今日は栗の渋皮煮を作った。ほぼ1年ぶりに食べる秋の味覚に、去年、初めて栗の渋皮煮を作った時のことを思い出した。栗は大好物だ。昨秋は料理を始めたばかりだったので、渋皮煮ばかり作っていたが、今年はもっと他のお菓子や料理も作ってみたいと思っている。

今日も朝から雨で、「秋の長雨」という言葉を実感する。昨夜から『作家の食卓』(平凡社)という本を読み始めた。昨日書いた、『作家のおやつ』と同じシリーズのムックで、著名な作家達の食にまつわるエピソードや、その食卓を再現した写真で、彼女達の食に対する、ひいては生活全般に対するあり方を伝えている。昨夜、読んでいて最も共感したのは、円地文子の「旬を味わうのは、楽しい趣向の一つである」という言葉だ。

2010年9月15日水曜日

秋が来た

今朝、目が覚めたら、虫の音が満ちていた。
今朝は、と言っても、もう昼に近い時刻だったが、パンケーキを焼いた。栗の渋皮煮を作ろうと思って、昨日、メープルシロップを買い、味見をしているうちにパンケーキを食べたくなったのだ。
最近はすっかりご飯党になっているので、パンケーキを焼くのは久し振りだ。子どもの頃、日曜日の朝食はパンケーキとオニオンスープだった。それでパンケーキを焼くと、日曜の朝ののんびりした雰囲気が蘇る。家の裏庭には無花果の樹が一本あった。今でも無花果を食べると、もいだばかりの実を庭の蛇口で洗って登校前に食べた、小学生の夏の朝の情景が思い出される。今日は無花果のコンポートも作った。赤ワインで煮たのだが、香りづけにシナモンと八角を入れた。八角、またはスターアニスは中華料理によく使われる香辛料で、前から気になっていたのだが、今日、初めて買ってみた。癖のある独特の甘い香りが気に入った。

先日、『作家のおやつ』(平凡社)という本を読んだ。薄手のムックで、ほぼ一晩で読んだ。いい企画だと思った。作家、随筆家、詩人、翻訳家、映画監督、漫画家など、なんらかの形で「書く」ことに携ってきた著名人達のお気に入りのおやつを、豊富な写真と、身近にいた人々のエッセイで紹介しており、食べ物への嗜好や、それに対する態度から、その人の人柄や生活ぶりがぼんやりと浮かび上がってくる。まさにブリア=サバランの言うごとく、「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人間であるかを言い当ててみせよう」だ。

この本を読んで感じたのは、人間の味覚は意外に保守的なものだということだ。だいたいが、その人が育った家庭や土地でよく食べたお菓子や果物を、終生好んでいる。よく言われる「故郷の味」「おふくろの味」というやつだ。そうして、この本で取り上げられている著作家達はだいたいが中産階級出身の知識人なので、目の玉が飛び出るような高価なお菓子や珍味というのはなかった。仕事の合間につまめる小型の菓子―キャンディー、クッキー、プティフール、老舗の上生菓子、地方の銘菓、お煎餅などだ。
いちばん興味深かったのは森茉莉の項だ。彼女の食にまつわるエッセイは繰り返し読んだので特に目新しい点はないが、文字の上でだけ知っていたお菓子を写真で見るのは新鮮な感じがした。森茉莉の味覚は信用できるので、彼女が薦める料理やお菓子は食べたり作ったりしてみようという気になるし、自分の好物を彼女も好んでいたのを知ると嬉しい。彼女は、紅茶はプリンス・オブ・ウェールズを好み、シュークリームが好きだったというが、私もそうだ。明治時代のレシピ通りのシュークリームを作り続けている自由が丘風月堂の「シュ・ア・ラ・クレーム」の写真が載っていて、それを見つつ、森茉莉のエッセイを読み返しているうちに、「卵黄と、牛乳と、ヴァニラの香いが唇一杯にひろがる」カスタードクリームを食べたくなった。ふだんは、さほどカスタードクリームが好きではないのだが、森茉莉の文章は、それがさほど美味しい物ではないと知ってはいても食べたくなってしまう、味覚のイマージネーションを掻き立てる力が抜群なのだ。

と言うわけで、今晩のデザートは桃のグラタンだった。カステラに桃のコンポートを乗せてカスタードソースをかけ、グリルでさっと焼いた物だ。数年前に買ったお菓子作りの入門書に載っていたレシピで、いつか作りたいと思っていた。数日前に作った桃のコンポートが余っていたし、カスタードが食べたかったのでちょうどよかった。簡単にできるわりに見栄えが良く、まぁ美味しかった。
それにしても数日前まではオーブンを使うと暑苦しくて不快だったのに、今日はそんな感じはなかった。夕方から降り出した雨のために肌寒いくらいだ。いよいよ秋だなぁ。明日は栗の渋皮煮を作ろう。

2010年9月12日日曜日

涼しくなって

9月8日に東京国立近代美術館の上村松園展へ行った。この日は朝から雨が降っていたが、最寄りの地下鉄の駅を出た時は雨が最高潮に達していて、数年ぶりに経験する土砂降りだった。歩道と横断歩道の段差の所にできた水溜りで革靴をびっしょり濡らしてしまい、おかげで大昔に予備校で教わった英語の不規則動詞の暗記法を数年ぶりに思い出した。それはこういうものだった。「ピッチピッチ、チャップチャップ、run, ran, run」

この日から秋が来た。ニュースでは相変わらず猛暑を伝えているし、寝苦しい夜もある。しかし、それは衰え行く季節の最後のあがきだ。店頭にはもう栗も梨も柿も並んでいる。そうして夏の間は食べる気も作る気もしなかったビスケットを作りたくなった。バターとオーブンを使うビスケットやパイは、ヨーロッパの涼しい気候には良く合うだろう。冬にオーブンを使うと我が家の狭い台所はすぐ暖かくなって、まことに具合がいい。しかし夏にオーブンを使うと暑くてたまらないし、バターと小麦粉で作るビスケットやパイの生地なんぞは湿気と暑さでべチャーと伸びて、うまくまとまらないのだ。
夏の始めに「モラセス」という糖蜜のシロップを買った。ジンジャービスケットを作るためだ。この「糖蜜」は英国の小説にときどき出てくるので、どんな味がするんだろうと前から思っていた。これは精製していない砂糖のシロップで、食べてみたら何のことはない、黒蜜の味だった。これを買って間もなく蒸し暑さが厳しくなり、ビスケットなぞの洋菓子を作る気がしなくなったので、ほとんど使わないまま放っておいた。やっと涼しくなったので、これを使ってビスケットを焼こうという気になっている。

2010年9月6日月曜日

コンデスミルクティーを飲みながら

今日は、鶏手羽先のヌックマム揚げと空心菜のヌックマム炒めを作った。ベトナムの惣菜料理だが、手軽に作れるわりに「手羽先ってこんなに美味しかったかしらん」と思う味だった。暑い季節には暑い国の料理が合うなぁ、と夏ごとに思う。手早く作れるし、暑さに対抗する力を蓄えてくれるように感ずるのだ。

今日は久し振りに赤ワインを買った。フルボトルで千円前後の赤に美味しい物はなかなかなかろうと思っていたが、これはいけた。私が好きな白ワイン、北海道ワイン株式会社の「おたる」ワインは香料を入れているのではないかと思うほど芳醇な葡萄の香りがして、味わいもフルーティーだが、このメーカーの赤ワインが近所の西友に出ていたので買ってみたのだが、こちらも葡萄の香りが豊かでフルーティーな味だった。というわけで、今日の夕食は簡単ながら満足できる物だった。

先週、出光美術館の「日本美術のヴィーナス展」へ行った帰りに、銀座のベトナム料理店「ラ・スコール」へ寄った。白身魚の揚げ焼きと、ご飯とスープを注文した。ホールに出ていたシェフに何の魚かと尋ねたら、ナマズだという答えだった。ナマズ! 記憶にある限りでは食べたのは初めてだ。ベトナムではよく食べるらしいけど。
デザートは、バインフランと蓮茶にした。バインフランはベトナムのプリンだ。コンデスミルクを使った濃厚な味で、現地ではアヒルの卵を使うそうだが、「ラ・スコール」では合鴨の卵を使っている。今まで食べたことのない程こってりとしたプリンだった。どうしたらあんなに濃い味が出るのだろう? 自分でも作ったことはあるが、あんなに濃い味にはならない。

ここ数日、凝っているのがコンデスミルク入りの紅茶だ。コンデスミルクを入れて飲むベトナムコーヒーの、紅茶バージョンだ。ベトナムでは、グラスにコンデスミルクを入れ、グラスの上に置いたコーヒーフィルターでコーヒーを淹れる。白いコンデスミルクの上に黒いコーヒーがぽたぽたと滴り落ち、白と黒のツートンカラーの層ができる。それを見るのが好きで、紅茶党の私はコンデスミルクの上に紅茶をゆっくりと淹れる。急に淹れるとすぐにコンデスミルクと混ざって白濁し、ツートンカラーにならないので、一滴ずつ淹れるつもりで気長にゆっくりと注ぐと、ミルクティー色の紅茶と白いコンデスミルクの二層の飲み物になる。それが見たくて、今日は厚手のグラスを買った。飲む時はかき混ぜてしまうのだが。味は極甘のチャイだ。ふだんは紅茶に砂糖は入れないのだが、このコンデスミルクティーは今の蒸し暑く、気力も萎えてしまうような気候に妙に合うのだ。「熱中症対策には水分と塩分の補給を」とよく言われるが、糖分の補給も必要なのではないかと感じる。そうして、大学の恩師から聞いたエピソードを思い出す。
私の第二外国語はロシア語だった。ロシア語の先生の一人は、モンゴル語も教えておられた。と言うより、モンゴル語の方がご専門だった。モンゴル留学中に敗戦を迎えてシベリアへ送られ、捕虜収容所でロシア語を習得されたのだ。収容所では、料理係を割り当てられた。捕虜達は肉体労働をさせられるので、ふだんは塩味の濃い食事を好んだが、雨などで仕事が休みになる日は、普段の味付けの料理を出すと「しょっぱい」と言われたそうだ。
カンボジア在住の日本人が、「カンボジアは暑くて、立っているだけで汗が出て疲れる」と言っていたが、過酷な気候は知らぬ間に体力を消耗させるので、激しい労働の後では濃い塩分や糖分を欲するように、厳しい暑さの下でも、身体は自然と濃い甘味や塩気を欲するようになるのではないかと思う。

2010年7月17日土曜日

梅雨明けに思う

昨夜は蒸し暑くて、明け方まで寝付けなかった。昼のニュースで、関東地方の梅雨明けを知った。
数日前のニュースでは、北海道で秋刀魚漁が始まったことを知った。今日、近所の魚屋へ行ったら、新秋刀魚が売られていた。「秋刀魚」と書くぐらいだから秋の魚だとばかり思っていたが、漁は夏から始まっているのだ。旧暦では7月はもう秋だから、旧暦の感覚では確かに秋の魚だが。

これで季節が一巡したなぁと思った。私がきちんと料理を始めたのが昨夏の終わりで、魚や野菜や果物に旬があることを実感し始めたのはその時からだ。その時は刺身にできるほど新鮮な秋刀魚が、大量に安売りされていた。それから鯖の美味しい季節になり、「春の魚」と書く鰆(さわら)の季節に移り、秋刀魚はいつの間にか解凍物しか見かけなくなった。血で濁った氷水の中に沈んでいる「解凍サンマ」は、いくら安くても買う気がしなかったが、今日見た新鮮な秋刀魚は身が銀色に光っていて食欲をそそった。また秋刀魚の季節が来たのか、と思った。

私は果物が好きだが、昨夏まではあまり果物を買わなかった。林檎を一袋買ったとしたら、その日のうちに全部食べてしまうような無茶な食べ方をしてしまうので、不経済に思えたからだ。だが昨夏、身体を壊して医者から果物を薦められて以来、身体にいいんだから、という大義名分の下によく買うようになり、そうするともともと好きな物だから、何は置いても果物を買うようになった。なかでも桜ん坊は一番好きな果物だが、毎年、2、3度食べたかと思うと、もう店頭から消えているので、今年は店頭に出回っている間は食べようと思い、この一月は桜ん坊を食べ続け、さすがに少し飽きて来た。と言いつつ、今日もアメリカンチェリーを買った。林檎のように一年中出回っている物なら、そう執着はしないだろうけれど。

今週の水曜日には、東京會舘のクッキングスクールへ1回だけの体験入学をした。東京會舘のベテランコックが教えて下さるというので、前々から楽しみにしていたものだ。献立は、ローストチキンとソテーポテトとフルーツサラダだ。ローストチキンは、助手のコックが作って下さるのを見ているばかりだった。家庭で日常的に作る物でもないので、こういう作り方をするのか、という参考になった程度だが、ソテーポテトとフルーツサラダは翌日から家で作ってみた。
ソテーポテトは、茹でたじゃが芋を油で揚げてバターであえる、という三段構えの調理法だが、手間をかけるだけの甲斐はある味だ。教室では仕上がりにパセリを振るように教わったが、私は好物のローズマリーの粉を振り、その香りと味わいを楽しんでいる。
フルーツサラダで特に参考になったのは、マヨネーズの作り方だ。自分でも作ったことが2回あるが、時間がかかり過ぎるか上手くいかないかで、自家製マヨネーズは諦めていたのだが、教室では簡単に出来たので驚いた。翌々日に家で作ってみたが、上手くいった。これからはマヨネーズは家で作ろうと思った。

料理教室の利点は、調理の過程を目の前で見られることだろう。料理の本だけを頼りに調理していると、細々とした疑問や矛盾点にぶつかることがよくあるのだ、ことに初心者は。
初めて作る料理は本に添えられた写真がおおいに参考になるが、その写真とレシピが矛盾していることが時にはある。ベトナム式バケットサンドを初めて作ったとき、レシピには「フランスパンに、縦半分に切り込みを入れ」とあるのに、見開き頁に載っている写真のバケットサンドには横半分に切り込みが入っている。その本の表紙に写っているバケットサンドには縦に切り込みが入っている。どちらが正しいのか? 切り込みが縦に入っていようと横に入っていようと、味に変わりはなかろう。だが私は「ベトナム式」バケットサンドを作りたいのだ。どちらが本場風なのだろう。
その後ベトナム料理店で見たバケットサンドには、縦に切り込みが入っていた。他のデリカッセンも兼ねたパン屋で見たフランス風のバケットサンドは、縦に切り込みが入っている場合もあれば、横に入っている場合もあった。結局、どちらでもいいのだろう。
ということで、今ではこの類いの些細な矛盾や疑問はあまり気にしなくなったが、初めのうちは戸惑った。マッシュポテトの作り方に「じゃがいもを塩ゆでし」と書いてあるが、じゃがいもは水から茹でるのか、お湯を沸かしてから鍋に入れて茹で始めるのか、火加減はどれぐらいか、何分ぐらい茹でればいいのか。

こうした経験は、独習で料理を始めた人がたいてい経る過程だろう。先日読んだ『文士厨房に入る』(みすず書房)は、そうした点を突いていて面白かった。ジュリアン・バーンズという英国の作家の料理エッセイ集だ。男ばかりの兄弟で料理は母親任せという、ありがちな家庭環境で育った男性が、独り暮らしで必要に迫られて料理を始め、今では女性のパートナーと暮らしているが料理は彼の担当で、ホームパーティーでは手料理でもてなすようにまでなったが、その過程で感じた様々な疑問や失敗をユーモラスに書いている。「中ぐらいの玉葱」とはどの位の大きさの玉葱を指すのか? 「掌一杯」という量は、子どもと(サーカスの見世物小屋の)大男ではまったく違うだろう、などなどの突っ込みに共感しつつ読んだ。

2010年7月10日土曜日

ゴーギャンの『ノアノア』を読んで

ゴーギャンの『ノアノア』(ちくま学芸文庫)を読んだ。彼の第1回目のタヒチ滞在記だが、描写力が素晴らしい。話の運び方が強引で分かりにくかったり、自分に都合の悪い点はぼかして書いてあったりして、不誠実な感じを受ける箇所も間々あるが―書きにくい事ならまったく触れなければいいのに、中途半端に触れているので―、そんな事はどうでもいいと思わせる迫力がある。
彼は画家、「観る人」だ。「書く人」、作家ではない。だが並みの作家が及びもつかぬ迫力でタヒチの風物を、人々を描き出す。彼の観たタヒチは、その絵画と同じく強烈な陽射しと原始性と花々の香りに満ちている。
ちなみに「ノアノア」は、「芳しい香り」という意味のタヒチ語だ。

ゴーギャンは1891年6月から2年間、タヒチの人々と共に暮らし、絵を描いた。現地人の妻を娶り、集落の人々と共にカヌーを漕いでマグロ漁へも出る。ゴーギャンが釣上げた大きなマグロは頭を棒で殴り付けられ、カヌーの中でのたうち回る。
「多面のきらきらする鏡に姿を変えたその体は、千の火の煌めきを散らしていた。」
どうです、この描写力! 鮮烈な映像が浮かんで来るではありませんか。
夕方になり、漁を終えたゴーギャン達は帰路を急ぐ。
「熱帯の夜は早い。夜の先を越さねばならなかった。二十二本の精悍な腕が櫂を海につっこみ、漕ぎ手は、気を奮い立たせるために、調子をとって叫んでいた。我々のカヌーのうしろに、青白い水跡が開いていた。」
力一杯櫂を漕ぐ11人の男達、波を蹴立てて進むカヌー、船尾に表れては消えていく白い波の筋が鮮明に浮かんで来る。

2010年7月6日火曜日

カポディモンテ美術館展


今日は国立西洋美術館のカポディモンテ美術館展へ行った。ナポリのカポディモンテ美術館の、ルネッサンスからバロック期のイタリア美術の作品展だ。ローマ法王となったアレッサンドロ・ファルネーゼが始めたコレクションが土台となっているためか、宗教画が主体のお行儀のいい絵ばかりだった。ファルネーゼ一族の勢力誇示の一環として、その教養や財力の高さを示すために始められたコレクションなので、聖職者や貴族達に安心して見せられるような品のいい題材や宗教画ばかりなので、印象派以降の個性や主張を押し出した作品に馴れていると、大人しいというか物足りない感じもした。加えてファルネーゼ家の領地だったパルマ出身の画家を贔屓にしていたので、イタリアの郷土色を濃く感じさせた。
そうして宮殿を飾るべく収集・発注された絵はサイズが大きく、描かれた人物も画面一杯に躍動感のあるポーズを取っているので、この絵を展示するには絵の迫力に負けない広さと華麗さのある空間が必要だという感じがして、四角く白い美術館の展示室がいかにも狭苦しく感じられた。なんだか動物園の虎を想わせた。鉄格子の向うをひっきりなしに右左に行き往している虎を見た時、かつて彼の周りに広がっていた広大な山野が浮かび、狭苦しい檻の中に囚われた獣の焦燥が伝わって来たものだ。

そう言えば昨日、『パンダの飼い方』(白輪剛史著、PHP研究所)と言う本を見かけた。パンダやライオンなど、個人では飼えないか飼うのが難しい動物の飼育や購入の方法について書かれた物だ。大方の読者にとっては、「飼えないのは分かっているけど、もし飼えたら…」という空想の羽を広げて楽しむ本だろう。

同時開催の「オノレ・ドーミエ版画展―『カリカチュール』と初期の政治諷刺画―」へも行ったが、権力者への風刺は当時の人々には痛烈に面白かったろうが、1半世紀が経ち、当時の社会状況を知らない私が見てもピンと来ない。まるで気の抜けたコーラだ。学生時代にホット・コーラと言う飲み物があると聞いて、コーラを鍋で温めて飲んでみたら、たんなる極甘の砂糖水だった。彼の風刺画で今見ても面白いのは、エゴや自惚れと言った人間の普遍的な悪癖を嘲笑った作品だろう。

それと同じでキリスト教の宗教画は、仏教の文化圏で育ち、かつ無神論者の私には何かピンと来ないのだ。それよりは美しい若者や子どもを描いた、誰にでも分かる作品のほうに惹かれた。と言うわけで、ポスターピースのパルミジャニーノ作「貴婦人の肖像」(上図)が一番いいと思った。パルトロメオ・スケドーニの「キューピッド」も、幼児のふっくらした身体つきの愛らしさがうまく表現されていて良かった。

美術鑑賞の後はアメ屋横丁で買い物をした。例によって食材ばかりだ。実は絵を観ながら、夕食の献立を考えていた。今日はアレクサンドロス大王の誕生日なので(それを口実に)ご馳走風にしたいと思っていたのだ。と言うわけで、晩餐(?)はイカスミのスパゲティ、トマトとモッツァレラチーズのサラダ、柘榴のジュース、白ワイン、レモンタルト、米国産と日本産の桜ん坊、紅茶だった。イカスミのスパゲティを食べたのは初めてだが、期待していたほどの味でもなかった。だが全体としては満足した、美味しいご馳走だった。
ちなみに明日はシャガールの誕生日だ。おまけに七夕だ。この調子でいくと、一年中ご馳走の口実には事欠かない。

2010年7月2日金曜日

マネとモダン・パリ展


最近、私はパリづいている。林芙美子の『下駄で歩いた巴里』を読み終えたばかりだし、今日は三菱一号館美術館の「マネとモダン・パリ」展へ行った。三菱一号館はジョサイア・コンドルの設計で、東京都庭園美術館と同じく建物自体に歴史的な価値がある。展示室と展示室をつなぐガラス張りの廊下から見下ろす中庭も、いい目の保養になった。この中庭は丸の内のビル街の谷間に造られた物で、地上からの眺めより2階、3階から俯瞰的に眺めるほうがより素晴らしさを味わえる立体的な造りで、人工の美の巧緻を感じさせるものだった。
都市の中の美術館をコンセプトとしたこの美術館の開館記念展の第1弾として、パリに生まれ、パリを描いたマネの代表作と、同時代のパリを描いた絵や写真を展示したのが当「マネとモダン・パリ」展なのだが、ゾラやモーパッサンの小説を彷彿とさせる、パリが世界の都であり、芸術の都であった時代の雰囲気と、明治期の煉瓦の洋館が醸し出す独特の雰囲気が呼応し合い、不思議な効果を挙げていた。
と言っても、マネを特に好きという訳ではない。マネは日本人が最初に触れる洋画の典型で、大御所過ぎて食傷気味だからだ。それで大した期待も持たずに行って、と言うのは銀座で買いたい物が幾つかあったので、買い物と美術鑑賞とどちらが主体だか分からない心持ちで出掛けたのだ。
だから特に深い感銘は受けなかったが、さすがマネ、素晴らしいとは思った。ポスターピースの「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」(上図)と、「ラティユ親父の店」は殊に良かった。前者は画家であり、後にマネの義妹となったベルト・モリゾの肖像で、モデルと画家の間で交わされていたであろう親愛の情や同業者としての尊敬が画面から漂って来る秀作だ。後者はマネが贔屓にしていたガーデン・レストラン「ラティユ親父の店」での、一組のカップルを描いたものだ。晴れた午後、戸外のテーブルで語り合う若い男女、女の顔を覗き込む青年の生き生きした表情は、誰もが通る青春の恋の喜びの一瞬を捉えている。
ところで鑑賞の後半からお腹が空いてきた。空腹と疲れを引きずって美術館を出て、銀座などで予定した買い物を済ませて帰りの電車に乗った頃に、マネの「レモン」が浮かんで来た。一個のレモンを描いた小品で、別段マネでなくとも描けそうな変哲もない物だが、妙に惹かれた。絵葉書を買っておけば良かったと思った。

ふだんは和食党だが、洋画展へ行くと洋食が食べたくなるので、今晩はスパゲッティにすることにした。家の近くのスーパーに寄ったら、箱詰めのトマトが売られていた。真っ赤に熟して艶々したトマトがいかにも美味しそうで、それでも普段なら迷うところだが、疲れて判断能力も鈍っているところで一箱買った。これでトマトソースを作り、オムレツやピザに使うつもりだ。
その他、今日は沖縄の物産館「銀座わしたショップ」で、宮古島産のドラゴンフルーツのジャムなどを買い、山形の物産館「おいしい山形プラザ」で桜ん坊の酢漬けを買った。ドラゴンフルーツジャムは明日のブランチに―明日も寝坊するに決まっているので―食べる予定だ。
このようにして、私の思考と生活は食事を中心に回っていく。

2010年6月18日金曜日

ルーシー・リー展


今年初めての西瓜を食べた。今日は美術館へ行き、鑑賞の途中でお腹が空いてきて、空腹と疲れと蒸し暑さでぐったりして帰宅したのだが、一口西瓜を食べた途端に瑞々しさが身体中に拡がった。梅雨と夏の蒸し蒸しした季節に、冷えた西瓜ほど美味しい物はない、という気がした。旬の果物を頂くと、季節そのものを食べている気がする。

今日観て来たのは、国立新美術館のルーシー・リー展だ。ルーシー・リーはウィーン生まれのユダヤ人で、第2次大戦時にロンドンへ亡命して以来、終生ロンドンに住み続けた陶芸家で、その経歴が示すごとく都会的で女性的な作風だ。ポスターピースの青釉鉢(上図)に惹かれて展覧会へ行ったのだが、それは逆三角形型の水色の鉢で、広い縁が金色のラインで縁取られている、その水色と金という色の取り合わせがいかにもヨーロッパ的で、くすんだ土色の日本の陶磁器に馴れた目には斬新だったのだ。他に緑色の地に金色の縁という鉢もあったし、淡いピンクの鉢や花器もあり、女性好みの明るく柔らかな色彩と、洗練されたシンプルなシェイプ、作品全体から感ぜられる洗練、そんなものがいいと思った。

2010年6月11日金曜日

ブランデー漬けの桜ん坊

今日は桜ん坊のブランデー漬けを作った。作ったというほどの物でもない。洗った桜ん坊をブランデーに漬け込むだけだから。これを数ヵ月、冷暗所に置いておくと勝手に出来上がっているはずだ。
ピーター・メイルの『南仏プロヴァンスの木陰から』で、著者が近所のお宅を訪問した際にお茶とブランデー漬けの桜ん坊でもてなされた、というのを読んで以来、どんな味がするのだろうと気になっていた。私はお酒に弱いので、そう美味しい物になるとも思えないが、ものは試しで作ってみた。出来上がりが今から楽しみだ。

2010年6月9日水曜日

ベトナム風バケットサンド

今日はベトナム風サンドイッチを作った。フランスパンの縦か横に切り込みを入れて内側にバターを塗り、ベトナム風の具を入れてヌックマムで味付けした物だが、今日は大根と人参のなます、胡瓜、ベーコンを入れた。さらに香菜やミント、唐辛子のみじん切りなどのベトナムの食材を加えていくと、より現地風に近づいて行く。米食のベトナム人が、ご飯に合わせて作ったおかずの残り物や、台所にある有り合わせの野菜をフランスパンに挟んでみました、という感じの料理だが、これが美味しいのだ。
昨夏、ベトナム料理に少し凝っていたときにも作ってみたが、上手くいかなかった。こんな料理とは言えないような物でも、見たことも食べたこともない料理を、本を頼りに作るのは結構難しい。明治の初期に、欧米人に雇われて見様見真似で西洋料理を作ったコックや台所女中たちの苦心が偲ばれた。
今年になって、有楽町のベトナム料理店でこのベトナム風サンドイッチ、「バインミー」を食べて、こういう物かと納得して、今日、作ってみた。

ベトナムへ行ったことはないが、書物を通して知るベトナムの料理や文化は、インドや中国やフランスの支配を受けながらも彼らの文化を柔軟に取り込んで来た、その重層性のある複雑さが魅力的だ。外国人の私には、フランスパンにベトナムの伝統的な食べ物を挟むバインミーは、そうした文化のささやかな象徴に見える。ベトナム人にしてみれば、そんな事をいちいち考えてみることもない程ありふれた食べ物ではあるのだが。

2010年6月8日火曜日

チェリーな日

今日はパイ皿を買って、チェリーパイを作った。冷凍パイシートに、先日作ったチェリージャムを詰めたのだが、なかなかいけた。今度はパイシートも手作りしよう。チェリージャムは煮詰めるのに時間がかかるので、今度の詰め物はさっと煮ればいいチェリーコンポートにしようと思い、レシピをインターネットで探した。こういう時、インターネットは便利だとつくづく思う。以前は本屋や図書館へ出かけて、お目当てのレシピの載っている本を探したもので、それだけでも多少の手間はかかったものだ。

今日はチェリーご飯も作った。刻んだアメリカンチェリーと塩少々を入れて炊く物で、ほんのり赤く染まった甘口のご飯だ。

2010年6月6日日曜日

フルーツイーター

最近、またジャム作りに凝り始めた。今日はアメリカンチェリーのジャムを作った。500グラム分のチェリーの種を取るのもちょっとした手間だったが、煮詰めるのに1時間ぐらいかかった。ジャム作りは疲れる。昨年、ジャム作りをしていたときは電子レンジで作る簡易版だったので、大した手間はかからなかったのだが、鍋で煮詰める方法だと、美味しいけれど一仕事だ。
このジャムを使ってチェリーパイを作る予定だが、それまでにジャムがもつだろうか。私は果物好きで、その中でも一番の好物が桜ん坊なので、おやつ代わりにこのジャムをつまんだりして、いざパイを作ろうとした時に詰め物にするジャムがなくなっている恐れがある。桜ん坊の季節は短いので、この旬の時期に桜ん坊を使った料理を存分に作るつもりだ。
ちなみに、ロンドン塔の衛兵隊の通称は「ビーフイーター(牛食い)」だが、私は「フルーツイーター(果物食い)」だと思っている。あるいは「ドリームイーター」かも。吉田茂は、自分は「人を食っている」と言ったそうだ。人の好物はそれぞれだ。

2010年5月31日月曜日

アンリ・ルソー―熱帯への夢                 「オルセー美術館展2010―ポスト印象派」展を観て


先週の金曜日、久し振りに国立新美術館へ行った。オルセー美術館展を観るためだ。お目当てはアンリ・ルソーの「蛇使いの女」(右図)だ。この絵は子どもの頃から好きだった。熱帯の風物の絵やデザインが好きなのだ。それも現地の人が描いたのではなく、異邦人の目というプリズムを通して見た、楽園としての熱帯が。
以前、ベラルーシ料理店でパーティーがあったとき、クイズの景品として大判の布巾を頂いた。北国の陽の淡さを想わせる淡い薄緑の地に、棕櫚の枝にぶらさがる猿が大きく織り出され、両縁のボーダーに象、象亀、虎などのシルエットがオレンジ色で織り出された物だ。このデザインに北方人の南国への憧れを感じたが、ルソーの熱帯の絵もまさにそういう嗜好から生まれた作品だ。その中でも特に好きなのが「蛇使いの女」だった。

オルセー美術館展には115点の絵が出品されているが、まず「蛇使いの女」を観に行った。10の展示スペースのうち9番目が「アンリ・ルソー」というスペースで、「蛇使いの女」はそこに展示されている。彼の作品はもう1点、「戦争」も出品されている。「蛇使いの女」の前には半円の人の輪ができていた。思っていたより遥かに大きな絵だ。後で調べたら、縦169センチ、横189センチだった。
一目見て「上手い!」と思った。彼の絵には「ヘタ上手」なのがあるからだ。「フリュマンス・ビッシュの肖像」のように写実性を目指した作品にそれを感じるが、「蛇使いの女」の筆致は熟練した画家のものだ。そんな技術の完成度云々を飛び越えて人の胸に飛び込んで揺さぶる迫力がある。それはルソーの熱帯への夢の烈しさだ、と思った。
白い満月の浮かぶ密林に笛の音が流れる。横笛を吹くのは黒人の女。柔らかな音色に蛇やペリカンが誘われ出る。竪琴を弾くと野獣も草木も聞き惚れたという、オルぺウスの神話を彷彿とさせる。密林のオルぺウス。
女、密林、音楽、動物―ルソーの好きな物ばかりが描かれたこの絵は、ルソーの楽園なのだ。女と蛇の組み合わせは、月並みだがエデンの園を想わせる。ルソーのエデンの園。このイヴの顔立ちは暗くてはっきりしないが、よく観ると黒人の骨格ではなく白人の骨格に見える。白人の容姿をした黒い膚の美女。ルソーは実際に見たフランスの風景や人物を描くときより、憧れと幻想から絵筆を執るときに本領を発揮する画家だと感じた。

「蛇使いの女」と「戦争」を堪能してから入口に引き返し、展示の順に絵を観た。モネ、シニャック、セザンヌ、ロートレック、ゴッホ、ゴーギャン、フェリックス・ヴァロットン等々の傑作に圧倒され、出口に近い「蛇使いの女」の前にまた来た時、改めて感動した。生前から評価されていた大家の傑作群への感動が吹き飛ぶほどの存在感。絵の前には相変わらずの人だかり。
この迫力はどこから来るのだろう? 空想家にとって、夢想の世界での出来事は現実よりリアリティがある。そういう人物が心の眼で見た熱帯。北の都市パリに住む貧しい画家が、実生活とは対極の世界に憧れた、その憧れの切実さが観る者の心を揺さぶるのだ。

展示を見終わって、売り場で買い物をした。「蛇使いの女」の絵葉書、ポスター、マグネットと、岡谷公二の『アンリ・ルソー 楽園の謎』(平凡社)だ。岡谷氏の講演をブリヂストン美術館の土曜講座で聴いたことがある。「岡鹿之助とアンリ・ルソー」という演題で、興味深く、かつ勉強になる話だった。話の内容もさることながら、美学美術史なんて実社会には役立ちそうもない学科を卒業されて美術史家になられた、好きの道に徹した生き方には羨望を感ずる。ルソーだってそう思うだろう。画業だけでは生活できずに、様々な副業をしていたのだから。

『アンリ・ルソー 楽園の謎』は、ルソーの評伝だ。美術館からの帰りの電車の中で読み始め、徹夜で読み終えた。ルソーの故郷ラヴァルはかつては樹木の多い町で、どんな小さな庭にも樹が繁り、春は鳥の囀りで町中が大きな鳥籠になったそうで、ルソーの樹木への愛着はそこに根差しているのだという指摘に、なるほどと思った。
「蛇使いの女」は友人の母親から依頼された作品で、発注者のインド旅行の話から想を得たという。してみると、これはインドの夜の絵なのだ。大きな絵なので広いアトリエで描いたのかと思っていたら、住居兼用の狭いアトリエで描かれ、部屋一杯を占めていたという。こうした原始林を描くときは不安と胸苦しさに襲われて、窓を開け放したそうだ。それほど頭の中のイマージネーションをありありと視覚化できる能力というのは、常人離れがしている。神の姿や声を見聞きしたという聖人達の同族だ。聖ルソー。

この本にはアポリネールの写真が載っている。彼の肖像画「詩人に霊感を授けるミューズ」にそっくりだ。肖像だから似ていて当たり前なのだが、ルソーの肖像画は時にヘタ上手風になるので、一目でモデルが分かるほど特徴をよく捉えているのが印象的だった。同じ題の作品が2つあるが、先に描いたほうの肖像は本人によく似ている。やっぱりルソーは上手いのだ。
この絵はアポリネールに全然似ていないと新聞に酷評されたが、ルソーもアポリネールも、この作品のモデルが誰かは言っていなかった。それなのに、どうしてアポリネールだと分かったのだろう。やはり、本人に似ているのだ。

2010年5月24日月曜日

Jブンガク

初めてのシュークリーム
昨日は一日中、雨だった。雨音とCDを聞きながら、抹茶のシュークリームを作った。シュークリームを作ったのは初めてだ。子どもの頃からの好物だが、初めて作る時はシュー皮がうまく膨らまないものだということをよく読んでいので、作る気になれないでいた。先日食べた、ヒロタの京抹茶シュークリームが美味しかったので、作る気になった。失敗するだろうと思っていたが、割合にうまく焼けた。ただし、生地をスプーンですくって横に平べったい形で置いていったので、平たい形に焼け上がった。まるで大福だ。本当は縦に高い形でないと、中にクリームを詰めにくいのだが。今度はちゃんと絞り出し袋で生地を絞り出して、縦型の生地を焼こう。

今日は、昨日焼いたシュー皮に抹茶アイスを詰めて、抹茶シューアイスにした。

Jブンガク
昨夜から夏目漱石の『道草』を読んでいる。4月中旬から聴いているNHKの「Jブンガク」の6月のテキストだから。『道草』は、親族間の付き合いの煩わしさに振り回されて本意の生活ができないでいる男の話で、その主題にも、登場人物の心理にも大して共感が沸かないわりにはスルスルと読めてしまう。不思議な魅力のある長編だ。
この「Jブンガク」の4月前半のテキストは、太宰治の『ヴィヨンの妻』だった。あいにくと、この時はこの番組を知らなかったので聴き損ねた。講師のロバート・キャンベル氏の解釈を聴きたかったのだが。

昨夜は太宰の「如是我聞」も読んだ。志賀直哉への批判ということで、両作家とも好きな私は興味をもって読んだ。文芸誌の座談会で志賀から自作を批判されたことに立腹した太宰が、別の文芸誌に載せた反志賀論だが、志賀を「おまえ」呼ばわりして、もう言いたい放題である。こんな身も蓋もない個人攻撃を書く作家も作家なら、それを掲載する編集者も編集者だ。それを面白がって読む読者も読者だが。自分がこんなに野次馬だとは知らなかった。

これが収録されている『太宰治全集 第11巻』(筑摩書房)には、太宰の死に付いて書いた志賀の記事も載っていた。お互いに相手の作品を深く読んでいるわけではなく、ごく限られた作品を表面的に読んで批判し合っているような、長屋住まいの亭主同士の口論に限りなく近い、楽屋落ちの喧嘩だ。「なんだとは、なんだ」「なんだとはなんだとは、なんだ」「なんだとはなんだとはなんだとは、なんだ」式の喧嘩。

そう感じた方も多いと見える。同時代の文壇関係者達もこの「論争」に言及しており、それ等も収録されていた。両者とも優れた、しかし異質な作家なのだから、太宰はあんなに志賀の批判を気にせずとも良かったのに、という主旨だったが、同感だ。大先輩にムキになって刃向かって行くドン・キホーテ的な、「永遠の思春期」風のところが、太宰の魅力でもあるのだが。

どちらの作家がより好きかともし尋ねられたら、迷ってしまう。二人とも対極的と言ってよいくらい異質で、その異質さゆえに同じぐらい好きなのだ。自分の内面性は太宰に似ていると思う。だからこそ正反対の志賀の、あの揺るぎない自己肯定感に立脚した骨太の作風や文体に憧れる。文章を書くときはいつも何人かの作家を心に思い浮かべているが、そのうちの一人が志賀なのだ。

2010年5月18日火曜日

語りかける風景展を観て―ヨーロッパの光の淡さと点描画


語りかける風景展を観に、Bunkamuraザ・ミュージアムへ行った。ストラスブール美術館が所蔵している約80展の風景画が出展されていて、今日が初日だ。見応えのある作品ばかりで、2時間かけて観た。特に良かったのはフェリックス・ヴァロットン「水辺で眠る裸婦」(1921年)、ギュスターブ・ブリオン「女性とバラの木」(1875年)、ポール・シニャック「アンティーブ、夕暮れ」(1914年)(右図)だ。名前を知らなかった画家の作品も多く、私の美術の知識なんて「はとバスで巡る東京名所」のレベルだと思ったが、ヴァロットンを知ったのが一番の収穫だった。

ヴァロットンの「水辺で眠る裸婦」
この作品は、全裸の女が草の生い茂る川辺で眠る姿が画面の左手に大きく描かれ、右手の遠景の川面に、男達を乗せたボートが小さく描かれている。女の金髪の頭は深紅の布に置かれている。単純な線だが、写実的で力強い筆致だ。文明社会では通常あり得ないシチュエーションだがリアルさがあって、これもマジック・リアリズムと言えるのだろうか。遠景のボートは女の夢だろうか。アンリ・ルソーの「夢」(1910年)、密林に置かれた深紅の長椅子に横たわる裸婦を連想させる構図だ。

ヨーロッパの光の淡さ
シニャックの「アンティーブ、夕暮れ」は、モザイク風の点描画だ。点描画は大して好きでもなかったが、この夕暮れの港に帰港する船の絵を観て、点描画はいいと思った。そうして、ヨーロッパの淡い陽光と、それに照らされた微妙な光の陰影と色彩の濃淡に富んだ眺めの中でこそ、点描画は生まれ得たのだと思った。
ムンクの絵などは特にそうだが、ヨーロッパの風景画を観ると、光の淡い土地だなと思う。そうして反射的に、マダガスカル大使館で観た絵を思い出す。マダガスカルの画家が描いた現地の風景だろうが、沈みつつある夕陽が空を染めている画だった。その夕陽と空のピンクの鮮やかさは、日本の朱色の夕焼け空を見慣れた眼にはシュールだった。アフリカの夕陽はあんな色をしているのだろうか。大地を灼く熱帯の太陽の下では光も影も濃く、均質で、点描画のような微妙な色の濃淡からなる技法は生まれないだろうと思った。そうしてまた、このところ太宰治に凝っているので、十年ぶりに青森に帰郷した彼が、久し振りに見る津軽平野の稲田の緑や陽光は淡く薄く、心細かった、と書いていたのを思い出した。

2010年5月17日月曜日

ジョルジョ・サンクはどこへ?

今日は頂き物の多い日だ。近所のAさんからは新玉葱を、Bさんからはお手製の胡瓜の漬物を頂いた。

夕方、新宿の喫茶店ジョルジョ・サンクへ行った。が、建物ごとなくなっていた。ジョルジョ・サンクの入っていたビルは取り壊され、空き地に仮設店舗が建っていた。スフレが食べられなくて残念だ。代わりにルミネで、抹茶のロールケーキと柚子の紅茶を買った。

2010年5月16日日曜日

スフレの週末

昨日、今日とスフレを作った。昨日はバニラスフレで、今日はラムレーズンスフレだ。今日のはうまくいった。80点かな。料理の本の写真のようには、うまく膨らまない。
参考にした本は、藤野真紀子の『スフレ』(雄鶏社)だ。10年前に買い、幾度も眺めながら、なかなか作れずにいた。料理の腕があまりにも未熟だったのだ。最近になり、簡単なレシピならどうやら作れるようになって、ようやくスフレを作ったという次第。自分の腕よりは上の料理の本を買い、何年も眺めるだけで、最近になって活用し始めた、という本が何冊もある。

ここ数日、スフレのことばかり考えていたので、新宿のジョルジョ・サンクへ行きたくなった。この喫茶店で初めてスフレを頂いて、好きになったのだ。舌の火傷しそうなスフレを、しぼまないうちにと大急ぎでスプーンですくって頂く、あの楽しい忙しなさ。紅茶はフランスの物だろうか、素敵な香りがした。アールグレーが特に良くて、この店を紹介してくれた友人は「宝石のような香り」と言っていた。明日、行ってみよう。

2010年5月15日土曜日

「放蕩息子」の帰還

昨夜、太宰治の「帰去来」「故郷」「新ハムレット」を読んだ。「帰去来」は義絶された太宰が10年振りに青森の生家を訪れる話で、それから間もなく母親が危篤になり、今度は妻子も連れて帰郷したおりの話が「故郷」だ。「新ハムレット」は、シェークスピアのパロディーだ。
「帰去来」で再会した母親は優しかったが、太宰がどんな仕事をしているのかよく分かっていなくて、本屋を営んでいるのだろうと思っている。太宰は自分を認めてもらいたくて、十円紙幣を2枚、母親と叔母に差し出すと、2人は顔を見合わせてクスクス笑う。母親はお金を財布にしまい、その財布から熨斗袋を取り出して彼に渡す。中には多額の小遣いが入っていた。
当時の太宰は作家としての立場を確立し、娘も生まれ、落ち着いた生活を送っていたのだが。帰郷の汽車の中で、太宰は新聞に載っていた自作の書評を読む。その作品が「新ハムレット」だ。その中でハムレットの親友ホレーショーは、ハムレットの母親に言う。
「僕のような取り柄のない子供でも、そんなに、まともに(母親から)敬愛されると、それでは、しっかりやろうと思うようになります。王妃さまは、あんまりハムレットさまを悪く言いすぎます。それでは、ハムレットさまの立つ瀬が無くなります。……ハムレットさまを、もっと大事にしてあげて下さい」
私には、太宰が母親やその背後にいる家族たちに、とりわけ父親の死後に太宰の面倒を看てきた長兄に、こう言っているように聞こえるのだ。
「苦しみながらも僕は生きてきました。闘ってきました。あなた方にはずいぶんご迷惑をかけてきたけど、それは申し訳ないと思っているけれど、あなた方が僕の根源的な苦しみに気づいて下さっていたら、僕だってあんな滅茶苦茶はしなかったんです。今では僕も作家として、父親として、人並みな暮らしをしています。昔の放蕩息子じゃないんです。今の僕を認めて下さいよ」
太宰の生家は、使用人も入れると30人を超す大家族だった。母親は病弱で、太宰の養育は叔母や使用人任せで、幼い時に女中や下男から性的な悪戯をされ、自分の身体は穢されてしまったと苦しむ。それを両親に訴えることもできず、慰めを女性たちや酒に求め、自殺未遂を繰り返した太宰。彼の母親なり父親なりが、早いうちに息子の身に起きた異変に気づいていたらなぁと思う。哀しい親子だ。

2010年5月14日金曜日

ボストン美術館展のバニラちゃん


ボストン美術館展を観に、森アーツセンターギャラリーへ行った。16世紀から20世紀のヨーロッパの絵画80点が展示されている。名作揃いだが、モネとエル・グレコは凄い、と改めて感じた。何を今さら、だが。
ボストン美術館はモネのコレクションで知られているそうで、風景画10点がまとめて一室に展示されていた。「ジヴェルニー近郊の積みわらのある草地」(1885年)が一番良かった。飼料用の藁の山が積み上げられた空き地に、辺りを囲む樹々の根元の間から遅い午後の陽が射し込んでいる、その草地に落ちた光の加減がなんともリアルで、今までに様々な場所で見た草地に落ちる夕陽を思い出させた。さすが「光の画家」。
エル・グレコは「祈る聖ドミニクス」(1605年頃)が出展されていた。跪いて祈る聖人の全身像だ。写実性が重んじられた時代に、許され得る限り人物をデフォルメした独自の筆致、一目で「お、エル・グレコ」と分かる個性の強烈さが素晴らしい。アーティストはこうでなくてはいけない。唯一無二の存在であらねば。
展示作品の中からどれか一点だけ進呈する、ともし言われたら、ヴァン・ダイクの「チャールズⅠ世の娘、メアリー王女」(1637年頃)がいい(左上図)。水色のドレスと真珠の頸飾りで正装した、巻毛のローティーンの全身像だ。少女の瑞々しさと気品がいい。「バニラちゃん」って言う感じ。この絵葉書を買った。150円なり。庶民のささやかな眼の悦び。

帰りに、六本木の明治屋でバニラオイルを買った。週末にバニラスフレを作る予定なので。どんな時にも食い気を忘れないところが私らしい。

太宰治は大沢樹生?

五月晴れ
窓から見える柿の木の青葉が、日ごとに濃くなっている。「く」の字型に曲がった細い枝と枝の向うに、水色の空と白い雲が広がっている。これが「五月晴れ」か、と思った。

抹茶のスフレ

昨夜、抹茶のスフレを作った。うまく膨らまなくて、失敗。スフレを作るつもりはなくて、フルーツグラタンなんぞを作っている時は予想外に膨れて「勝手にスフレ」になるくせに、スフレを作ろうとする時は決まってうまく膨れない。週末に再挑戦しよう。

太宰治は大沢樹生?
新潮日本文学アルバムの『太宰治』を読んだ。作家の生涯を写真や資料で辿るシリーズ本だが、太宰の生家を見て驚いた。まさに「御殿」だ。こんな大金持ちの四男坊に生まれたら、家名に相応しい存在たるべく矜持を持って出世街道を歩むか、家名に押し潰されてロクデナシの放蕩児になるか反抗児になるしかあるまい。
高校時代から大学時代の彼は、ハイカラな美青年だ。俳優の大沢樹生風のバタ臭い顔立ちで、お坊ちゃん育ちの品の良さと弱々しさが感じられ、奇妙に母性本能をくすぐられる。年増好みの優男だ。
最近は気がつくと、彼のことを考えている。友達にも、伴侶にもしたくはない生活破綻者だが。高校時代に既に自殺未遂事件を起こしていて、心中未遂、芸者との結婚、アルコールや薬物への依存症の過去のある男を、一体どういうつもりで井伏鱒二は堅気の娘と見合いさせたのだろう。

2010年5月10日月曜日

太宰治の「浦島さん」

太宰治の「浦島さん」
太宰治の「お伽草紙」を読んだ。4つのお伽話、こぶ取りじいさん、浦島太郎、カチカチ山、舌切り雀の太宰バージョンだ。どの作品も、鋭い観察眼から生まれる独特の風刺が効いていて面白いが、「浦島さん」が一番笑えた。浜の旧家の総領息子で、風流人気取りの夢想家の浦島太郎―たぶん、太宰の長兄のカリカチュア―と、リアリストで庶民的で剽軽な毒舌家の海亀のやり取りは、高等漫才だ。この亀は落語の三枚目そのままで、屁理屈を言う浦島太郎に対して、「気取らなけれあ、いい人なんだが」と呟いたり、乙姫に見惚れる浦島太郎の横腹をヒレでちょこちょこくすぐって、「どうです、悪くないでしょう」と囁いたりするのだ。

抹茶のベニエ
このところ、抹茶のお菓子に凝っている。一昨日は銀座三越で抹茶のチーズケーキを買い、昨日は抹茶のベニエを作った。坂田阿希子著「抹茶のお菓子」(家の光協会)のレシピだ。ベニエはフランス版ドーナツだが、鍋を食卓に置き、揚げるそばから粉糖をかけて熱々のを頂いた。味は、甘味が少し足りなかった。今日も何かしらん、抹茶のお菓子を作る予定。

2010年5月6日木曜日

太宰治の「富嶽百景」

洗濯物の乾きが早くなった。もう夏だ。

昨夜、太宰治の「富嶽百景」を読んだ。彼の作品にしてはじめつきが少なくて、独特の剽軽な持ち味が出ている秀作だ。こんなにいい作家だったかしらん、と見直した。べつに私がどう思おうと、彼が優れた作家であることに変わりはないけれど。
彼は小説より、こうした随筆のほうが面白い。自分を美化せず、卑下もせず、淡々とユーモラスに出来事を語っている。作家の随筆なので、虚構や誇張も混じっているのかもしれないが、小説として読んでも随筆としても面白い。
富士を見渡す、甲府の御坂峠の茶屋に二階借りをした、初秋から初冬までの滞在記だが、特に茶屋の娘とのやりとりがいい。作家として崇拝を受けていい気持ちになり、しかし男としては警戒されていることに気が付いて傷ついたり、茶屋のおかみが外出して娘が一人の時に客が来ると、用心棒代わりに―なんて頼りない用心棒!―店へ降りて行き、後で客の棚卸しをしあったり。峠の向こう側へ嫁ぐらしい金襴の花嫁姿の客が来て、余裕たっぷりな態度で富士山を眺めて大あくびなんぞをしたので、太宰は「馴れていやがる。あいつは、きっと二度目、いや、三度目くらいだよ」と言い、娘は「図々しいのね。お客さん、あんなお嫁さんもらっちゃ、いけない」と言い、結婚を間近に控えた彼は顔を赤らめる。ああ、彼って実に人間味のある、優しい、いい人だなぁと思った。だから女性にもてたんだろうけど。

2010年5月4日火曜日

有島と谷崎と太宰を読み比べて

有島武郎の「或る女」と谷崎潤一郎の「春琴抄」と太宰治の「おさん」を続けて読んだ。「或る女」の前編を読み、それから「春琴抄」「おさん」、「或る女」の後編と読んだので、3人の作家の女性像の違いを鮮明に感じた。
彼らの中では谷崎が最も好きなのだが、有島の女性像と比べると谷崎ワールドの女性達はいかにも平面的だということを初めて感じた。谷崎は男を翻弄する毒婦型の女を好んで描いたが、彼が描くような完璧な悪女は虚構の世界の住人としては面白いし、男性優位の世の中でこれだけ自己本位に徹せられる女性は痛快だとは思うものの、そこまで「悪女」になり切れる女は現実には滅多にない。肉親の情にほだされることもあれば、千人の男を手玉に取ってきた女が千一人目の男によって真の恋に目覚め、それまでの生き方を悔いて苦しむこともある。

「或る女」のヒロイン葉子は、その点ではリアリティのある人物だ。美貌で勝気で男を操る手管も心得えた葉子は、確かに奔放な妖婦型の女ではあるが、情事に心をふるわせ、男の心を独占できぬことに苦しみ、彼への愛と肉親への愛に心を引き裂かれもするし、家事に采配を振るう良妻賢母の一面もある、矛盾に満ちた、ということはリアリティに満ちた存在だ。
モラルや法律を冒すとき、たいていの人は心の痛みを感ずる。谷崎ワールドの悪女達は、そうした葛藤を経ずにやすやすと既成概念を超え、また、それが許されるだけの美貌と魅力を備えているが、「美しくさえあれば何をしてもいい」というのは、谷崎のような耽美主義者や、その世界の中でだけ通用する観念で、現実には、美貌よりも道徳や慣習や法律のほうが強いのだ。
森鴎外の小説はたいして面白いとは思わないのだが、それは彼の頭の中が整然とし過ぎて、登場人物の葛藤があまり感じられないからだ。その点、「舞姫」はいい。日本のエリート青年とドイツのダンサー、日本なら芸者に類するような少女との恋、それが真剣なものであるだけに謗りを受けてエリートコースから脱落した青年が、結局はエリートコースへ復帰する路を選んで現地妻を捨てる、その葛藤に共感できるからだ。

「或る女」は、有島版「アンナ・カレーニナ」だ。美貌と才気に恵まれた葉子は恋愛結婚に失敗し、両親を亡くし、娘と2人の妹を抱えて、気に染まぬ青年との再婚を承諾させられる。渡米した婚約者のもとへ赴く航海中に、上級船員の倉知と恋に落ち、婚約者と再会はしたものの、はっきり破約せぬまま帰国する。このために倉知は離婚し、解雇され、軍事スパイとなる。彼と葉子は内縁関係を続けるが、倉知の心は冷めてゆく。彼を生涯の伴侶と思っていた葉子は嫉妬に狂い、ヒステリーを起こし、健康を害し、衰弱した身体のまま外科手術を受けて死亡する。
不倫の愛ゆえに世間から孤立し、その閉ざされた世界の中で愛に生きようとする女と、愛だけでは生きられぬ活動的な男との心の掛違いが拡大していく悲劇、女の発狂と死、という結末はまさに「アンナ・カレーニナ」だ。もっもと葉子は、アンナほど純粋ではない。婚約者の親友で、実直な青年を、ただ罪を犯させたいがために誘惑しようとするコケティッシュな女でもある。

ただ誘惑するために男を誘惑し、翻弄する女の一人として、ダフネ・デュ・モーリアの「レベッカ」が思い浮かぶ。美貌と才知で出会う人すべてを魅了するレベッカは、義兄や使用人をも誘惑するが、そうした恋愛遊戯は気晴らしに過ぎない。乳母でもあった腹心の家政婦だけを心の友とし、男という男を嘲笑い、愛に囚われぬがゆえに冷静で自由で、ごく身近な人々以外にはその二重生活を気取られることなく、上流婦人としての体面を保った生活をしていた。
「或る女」を読んで感じたのは、レベッカのように誰も愛さずに人は生きていけるのだろうか、という疑問だ。「誘惑する女」だって、自分が吐き出した恋の糸に自ら絡め取られてしまうこともあろう。それが人間というものだ。その弱さを持っているからこそ、葉子にはリアリティがあるのだ。彼女のような勝気な才女が、知性によって野性を漂白されてしまった穏便なインテリ青年達を物足らなく思い、行動によって生きる海の男に惹かれる気持ちはよく分かるし、妹の片方を可愛く思い、もう片方を憎く思ったり、何かと娘を心の支えにしながら、男のためには犠牲にしてしまう「女は母より強し」の心理もよく分かる。
気に入らぬ方の妹が葉子の丹精によって美しくなり、自分の情人や崇拝者の関心が彼女に移り始めた時の複雑な感情の起伏、それはかつて葉子の母親が葉子に対して感じた感情のリフレインなのだが、そうした女性の肉親間の微妙な心理の綾を、どうして有島は知り得たのだろう? あまり日本文学を読んでこなかったのでエラそうな事は言えないが、「或る女」は日本の小説としては珍しいほど骨組みのしっかりした、ストーリーにも人物にも奥行きのある作品だと思った。

太宰の「おさん」は、先日、三鷹を散歩したおり、太宰の住まいにあったという百日紅を見て、その百日紅が出てくる小説として紹介されていたので読んでみた。戦争で人が変わってしまった夫が愛人と情死する、その終わりの日々を妻の視点から描いた短編で、太宰自身の最期を予告するような話だ。
太宰は女性の一人称の語りを得意としているが、女性を描いているのではなく、女性を媒介として男性を描いているのだ。「ヴィヨンの妻」の語り手の詩人の妻、元は長屋住まいのおでん屋の娘と、「斜陽」の語り手の令嬢が、同じ山の手言葉で話しているのはおかしい。太宰の作品は代表作以外は読んでいないので断言はできないが、彼が描く女性は下層階級に属する人であっても山の手言葉で、つまり彼が本来属していた上流階級の人々の言葉で話していて、この点だけでもリアリティに欠ける。彼の作品の登場人物で共感できる女性は、「饗応夫人」の「奥さま」だけだが、これは太宰自身を戯画化した人物のように思える。「おさん」と「ヴィヨンの妻」の語り手の夫も、「斜陽」の語り手の弟も、太宰を戯画化したロクデナシの飲助だが、そんなふうに彼の小説はどれをとっても主要人物が彼の戯画像で、女性の語りを通してその男が描かれるという構造になっている。結局、彼は小説を通して様々な角度から見た自画像を描き続けたのだろう。その自分を見つめる視線が恐ろしく客観的なところが、彼が優れた作家たるゆえんなのだが。

それにしても、名家の出の太宰が貧乏たらしい世界を書き、庶民の出の谷崎が上流階級や花柳界の華やかな世界を書いたという対比は面白い。