2013年6月30日日曜日

「レオ・レオニ 絵本のしごと展」と『ホビット』

一昨日、「レオ・レオニ 絵本のしごと展」へ行った。会場はBunkamuraザ・ミュージアム。
 レオ・レオニは米国で活躍した絵本作家、イラストレーター、グラフィックデザイナーだ。絵本を創り始めたのは後半生の49歳からで、会場では絵本の原画が展示され、絵本も読めるようになっている。
 彼の絵本は説教臭くなく、純粋に楽しめるところがいい。『びっくりたまご』がいい例だ。鶏の卵を拾ったと思ったらワニが孵化し、そのワニを鶏だと勘違いしたまま終わる蛙達の話で、粗忽者が主人公の落語のパカ話と同じような愉快さがある。
 私が一番気に入ったのは『アレクサンダとぜんまいねずみ』(図)だ。しがない普通のネズミのアレクサンダは、親友のウィリーが羨ましくて仕方がない。ウィリーは玩具のぜんまいのネズミで、その家の娘に可愛がられている。アレクサンダは、魔法使いの蜥蜴にぜんまいのネズミに変えてもらうため、紫の小石を探し始める。ようやく探し当てた時、ウィリーは他の古い玩具と一緒に捨てられるところだった。アレクサンダは蜥蜴に、ウィリーを普通のネズミに変えてくれるように頼む。魔法は叶い、ウィリーとアレクサンダは大喜びで夜明けまで踊り明かす、というお話だ。こうした愉快な絵本の原画は、色鉛筆や水彩の背景に動物達が色紙で貼られているコラージュだ。
 彼の絵本の主人公はネズミや小魚、尺取虫などの小さな生き物だ。そのほうが子どもが絵本の世界に入っていきやすいからだ、と彼は説明している。そう、子どもは小さくか弱い存在だ、肉体的にも社会的にも。
 社会的な意味では、彼も「弱い」存在だった。オランダ生まれのユダヤ人で、イタリアで幸せに暮らしていたのにムッソリーニの反ユダヤ政策のために米国に亡命さぜるを得なかった。政情や社会情勢に左右される庶民は、みんなか弱き存在だ。彼は絵の才能と知性と、おそらくは人柄の良さのおかけで戦争を乗り切り、自分の足場を亡命先で築けた。小さな生き物や変わり者が知恵や団結力で困難を乗り超えるという彼のストーリーの骨子は、彼の生き方を反映しているのだろう。

 先週、映画を観た影響で、今は『ホビットの冒険』の原作を読み返している。ホビットも小人で、今週はどうもファンタジーづいている。まだ読み始めたばかりだが、これが不朽の名作になったわけがよく分かる。ホビット族は決まりきった安楽な生活のパターンを好む英国人のカリカチュアで、この物語全体が英国社会のカリカチュアだ。レオ・レオニは子どもの頃にアクアリウムを持っていて、その中で植物を育てたり蜥蜴などを飼い、自分の力でコントーロール可能な箱庭の世界を築いていたわけだが、「ホビット」シリーズは作者のトールキンの箱庭で、大学教員だった彼が属していた中産上層階級の箱庭でもある。どの登場人物にも短所と長所があり、それがいかにも現実にいそうなタイプなので、大人が読んでもリアリティーを感じる。
 「シャーロック・ホームズ」シリーズもそうだ。子ども時代からの愛読書で今でもよく読み返すし、またそういう大人が世界中にいるのは、この物語にリアリティがあるからだろう。ホームズの素晴らしい才能と我慢ならない欠点の数々、相棒のワトソンの凡庸だが温和で安定感のある人柄、こういう組み合わせのカップルや友人、仕事上のパートナー関係はよくあるし、相手の欠点をけなし合いながら心の底では信じ合っている姿は好ましい。
 人物や物事の短所と長所を客観的に描きながら物語に陰影とリアリティーを与える手法は、男性作家のほうが得意なような気がする。先日、有吉佐和子の『華岡青洲の妻』を読んだが、人物描写の平板さや物の見方が単視眼的なのが気になった。私は原田康子が好きだが、彼女の作品にも同じことを感ずる。一般に、女性のほうが物の見方が善悪二元論的に単純で、男性はもう少し対象から距離を置いて客観的に見る傾向があるように思う。私自身も実生活においては単純な、白黒の区別をはっきりつけたがる女性だが、文芸作品の読者としては、主人公は常に正しく美しく、敵は常に邪悪で醜い、という二元論的構造の作品はリアリティーがなくて単調だなぁと感じる。

2013年6月23日日曜日

『ホビット 思いがけない冒険』 -ホビットはいずこ?

今年のお正月にBBCのテレビドラマ『シャーロック』を観て以来、シャーロック・ホームズ役のベネディクト・カンバーバッチに夢中だ。彼の出演映画をDVDで少しずつ観ているが、今週末はジョン・ワトスン役のマーティン・フリーマン主演の『ホビット 思いがけない冒険』を観た。トールキンの原作は素朴なファンタジーだが、映画はジェットコースターのようにハラハラ、ドキドキの連続で、約3時間の上映時間があっと言う間に過ぎてしまう。心臓の弱い高齢者には勧められないが、この映画を観ながら他界できたらそれはそれで大往生という気もする。
 話が逸れたが、原作の文学作品と、脚本化された映画や芝居、テレビドラマとは別の作品だ。という認識でこの『ホビット』を観た。龍に祖国を奪われたドワーフという小人族の祖国奪還の闘いに、平和を好む小人のホビット族の一人、ビルボ・バギンズが参加する、というストーリーだが、原作ではホビット族のビルボが主役であるのに対し、映画では彼はレポーター的な役回りだ。映画では流離の戦士集団ドワーフ族の旅と闘いに脚光が当てられ、彼らの歴史や国を追われた経緯、周辺の部族達との敵・味方関係などを、ビルボの視点を通して視聴者は理解していく。ビルボは、同じ時刻の電車の、同じ座席に乗って通勤する保守的な英国人のメタファで、単調で平和な日常生活に満足しきって、それを搔き乱すような出来事は好まない。半人半獣のオーク族、妖精のようなエルフ族などの出会いと闘いでファンタジーの世界にのめり込んでいる時に、このホビット君が登場すると一気に英国の茶の間が出現して物語が日常性を帯び、魔術的リアリズムの世界になる。それはマーティン・フリーマンのキャラクターの魅力でもある。
 ベネディクト・カンバーバッチの、演じる役柄になりきってカメレオンのようにキャラクターや容貌を変える演技力は素晴らしいと思っていたが、どの役でもあまり自分の持ち味を変えずに、それでいて役柄になりきっているマーティン・フリーマンの演技力も素晴らしいと思った。いい役者にも様々なタイプがあるのだ。
 従軍記者的な非戦闘員だったビルボ・バギンズが、戦闘の連続の中でやむを得ず武器を取り、戦士へ成長していくのもこの映画の魅力の一つである。

 この映画の中で私が一番魅了されたキャラクターは、ドワーフ族の王、トーリン・オーケンシールドだ。原作では怒りっぽい老人で、映画では素敵な中年だが、共通しているのは欧米人が思い描くところのリーダーの資質を備えている点だ。攻撃の時は先頭に立ち、退却に際してはしんがりを務め、部下達が避難したのを見届けてから最後に退却する。部下の命には常に責任を持ち、強い意志力と頭の良さを備え、そのかわり傲慢で頑固だったりもするが、もしこんなリーダーが本当にいたら付いて行きたくなるだうろ。脚本家や監督は、彼を通して理想のリーダー像を描いているのかもしれない。
 私はこの手の「小さな集団のリーダー」というキャラクターには弱い。トーリン役のリチャード・アーミティッジは素敵なバリトン・ボイスだし。ベネディクト・カンバーバッチが好きな理由の一つも、彼のバリトン・ボイスだ。上の写真の先頭にいるのがトーリンで、ホビットのマーティン・フリーマンはどこにいるのだろう?

2013年6月15日土曜日

アントニオ・ロペスの『マリアの肖像』

先週と今週は現代美術を観た。現役で活躍中の画家の作品を観に行くというのは、私には珍しいことだ。いつも、とうの昔にお亡くなりになった巨匠の作品ばかり観ているので。
 まず、先週末に行ったのが国立新美術館の「現展」だ。現代美術家協会の公募展で、小田島久則氏の作品を観に行った。小田島氏と知り合ったのは昨年末で、職場の近くの小さなギャラリーで個展を開かれていた折りに話をしたのがきっかけだ。先日、「現展」の案内状を頂いたので行ったのだが、小田島氏の作品が一番良かった。どうも現代美術、ことに抽象画は何が描いてあるのか分からなくて苦手だ。小田島氏の作品は輪郭も色彩も明瞭で、動物が主人公のメルヘンチックな画風だが写実的で、実に私の好みだ。

 昨日の金曜日は「アントニオ・ロペス展」を観に、Bunkamura ミュージアムへ行った。アントニオ・ロペスはスペインの画家・彫刻家だということを、この美術展で初めて知った。ポスターピースの少女の絵()が良かったので行ったのだが、やはりこの作品が一番良かった。ロペスの娘の半身像、『マリアの肖像』だ。驚いたのは、これが鉛筆画だったということだ。鉛筆の濃淡だけでここまで写実的な絵が描けるのだ! 人の背丈よりも大きな作品『バスルーム』も鉛筆画で、これにも驚いた。
 人の心を素直に打つ作品というのは、題材が作家が日ごろ目にしている身近な対象か、愛情を抱いている対象だと思っているが、『マリアの肖像』はその両方を兼ね備えている。ロペスが妻と子どもを大切にし、家庭円満だからこそ画業に没頭できているらしいのは作品から伝わってくる。その愛娘の肖像画は写実的でもあり、男親の娘に対する愛おしみも伝わってくる。
 そう、彼の絵は実にリアルだ。この美術展のキャッチコピーも「現代スペイン・リアリズムの巨匠」である。特に風景画は写実的だ。マドリードの王宮の庭園、カンポ・デル・モーロを俯瞰した『カンポ・デル・モーロ』などの大きな風景画は、少し離れた場所から観るとまるで写真だ。もう一つのポスターピース『グラン・ビア』も写真のようだが、このマドリードの繁華街の、夏の早朝の20、30分間だけの景色を描くために7年間も街角に通ったという。それなら写真のほうが適しているのではないか、そもそもこれだけ映像技術が発達した時代に、絵画に写実性を追求する意味は何なのだろう、と考えている。