2013年12月23日月曜日

カイユボット-ディレッタントの美学

 12月20日(金)にブリヂストン美術館の『カイユボット展』へ行った。その印象を要約すると、「都市のディレッタントの美学」だ。
 ギュスターヴ・カイユボットは若くして莫大な遺産を継いだパリジャンで、趣味三昧の生涯を送った。画業は彼の美的活動の一部で、パリと地方に広い邸宅を構えて園芸とボート遊びに熱中し、庭園の草花やボート遊びをする人々を描いた。印象派の作品を収集し、画家達を援助し、印象派展の開催の肝煎をした。「趣味に生きた」人生で、これを羨まない人がどれだけいるだろう?
 弟のマルシャル・カイユボットと仲が良く、趣味や行動を共にしたが、マルシャルの方は写真に熱中して、ギュスターヴが描いたのと同じ光景を写真に残している。都市開発
によって新しくなったパリ、彼らが住んでいた高級住宅街の街並み、その住人の淑女紳士、彼らのために働く労働者、あるいは室内の家族や友人達のモノクロ写真は、社会的な記録として価値があるが、そうした光景をギュスターヴは正確な筆致で描いている。
 彼の作品では室内画のほうが好きだ。「昼食」や「ピアノを弾く若い男」のように家族を描いた作品が最も迫真性を持っている。どんな画家でも身近な人々や見慣れた光景を描いた作品が一番生き生きしていると思うが、カイユボットの場合は特にそう思う。たぶん彼は内気だったのではないか。豊かな教養と趣味を共有する都市のブルジョア達との一種閉じられた世界で生きた彼には、自宅で寛ぐ家族や友人という題材が一番合っていると思う。
 それと矛盾するようだが、この展覧会で一番印象に残ったのは「シルクハットの漕ぎ手」(図)だ。街から来たばかりの紳士がシルクハットを被ったまま、郊外の川でボートを漕いでいる。紳士は郊外のレジャーを楽しんではいるが、根っこは都会に、パリに属している。それはカイユボット自身の生活のあり方を表しているように見える。彼は地方に別荘を持ち、地方議員も務めているが、根はパリジャンだ。パリの洗練が骨の髄まで染みて、財産と教養に恵まれた人の謙虚さ、控え目さが感じられる。彼の作品にはゴッホの魂の叫びやゴーギャンの鮮やかな色彩、フリーダ・カーロの生々しい自己告白、ダリの強烈な自己顕示はなく、「魂を揺さぶられる」と言うこともない。悪く言えば旦那芸、ディレッタント的だが、それに収まり切らない腕の確かさや視点の斬新さがある。
 
 ところで、マネの絵を観るといつもゾラの小説を連想する。といっても代表作しか読んでいないので、繰り返し読んだ『ナナ』(新潮文庫など)の場面が浮かんで来る。カイユボットの絵を観ても『ナナ』を思い出す。ナポレオン三世治下のパリの高級娼婦ナナを主軸に、彼女の顧客の貴族やブルジョワジーとその妻や娘達、ナナの出自と同じ労働者達-役者、女中、娼婦達が交差する物語世界が、マネやカイユボットの作品を通してよりリアルに浮かんで来る。
 
 


0 件のコメント: