Bunkamura ザ・ミュージアムの「ジョン・エヴァレット・ミレイ」展へ行きました。お目当ては、左の「月、まさにのぼりぬ、されどいまだ夜ならず」です。
いま翻訳学校で In the Gloaming という作品を訳しているんだけど、とスコットランドの友人へ言ったら、この絵を推薦してくれました。黄昏時を指すスコットランド特有の Gloaming という言葉の感じが解かりますよ、と。そこで数々の名画は後回しにして、真っ先にこの絵を観ました。ミレイの別荘があったスコットランドのバースの、夕暮れの風景で、題名はバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡礼』の第4歌から取ったものです。
今、机の前に掛けてあるこの絵の絵葉書を眺めつつ、In the Gloaming の不治の病で死にゆく息子と、母親の対話を想うと、「死の朧月は出でつ、生の薄暮に」という言葉が思い浮かびます。これは、対話の物語ではないでしょうか――息子と母親の、死に行く者と遺される者の、その家族の外面と内面の生活の、黄昏と夜の――あらゆるものの境目で交わされる対話の物語です。ですから題名は、「すべてが暮れなずむ薄明のなかで」が相応しいと思いますが、長過ぎますね。というわけで「暮れなずむ薄暮のなかで」としておきました。翻訳はまだ公には刊行されていないはずですので、授業ごとに訳した箇所からブログに掲載していこうと思います。
In the Gloaming: Stories
「暮れなずむ薄暮のなかで」 アリス・エリオット・ダーク著
私訳Ⅰ
突然、息子がまた話をしたがるようになった。日中はまだじっと考えこみ、この夏の暑い最中に毛布にくるまって、車椅子という特等席から仏頂面でプールを眺めている。だが夕方には、レアードは、だいぶ本来の彼らしくなった――すっかり元通りの、昔の彼のように。レアードは素直になった。まだ、皮肉や気の利いた警句で幾重にも武装するようになる前の、子どもの頃のように。驚くほどの率直さで、彼女と話すようになった。そんな話し方をする人は、他には知らない――少なくとも、男性では。彼が寝ついてから、ジャネットは二人の会話を振り返って、あの時こう言えば良かった、と気づくのだろう。自分がおおむね率直で誠実だと思われているのを知ってはいたが、それは自己表現が上手かったからというより、聴き上手であろうと心がけてきたからだ。息子の話についていくのは大変だったが、今までの人生でずっと、ジャネットはそうできたらと願って来たのだ。
レアードは、ひと月ほど前、ニューヨークから電車で来た見舞客の、特に長く、うんざりした滞在の後で、新しい方針を宣言した。見舞客お断り、電話の見舞いもお断り、というものだ。ジャネットは、別段とがめなかった。しばらくレアードと会っていなかった人たちはたいてい彼の様子にひどく驚いて、涙ぐむ人さえいるので、彼のほうが相手を元気づけ、慰めなければならないはめになる。そうした会話の断片を、ジャネットは幾度か小耳にはさんで来たから。例の最後の見舞客も、他の連中と似たり寄ったりだったが、レアードはもううんざりしてしまったようだ。自分は、見舞客が元気づけられ、感心して首を振りながら帰っていけるような、気丈な人間には生まれ付いていない、と再三言っていた。仲間うちでは一番のハンサムで通ってきたし、そうでなくなってしまったことをとても残念がっている、褒められた患者ではないのだ、と。彼はすっか嫌気が差したらしく、沈黙の壁を張り巡らして閉じ籠り、数週間も、苦行のような習慣にせっせと励んでいた。
それから、態度を和らげ始めた。また話をしたがるようになったのだ、それもジャネットと。
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