2010年5月4日火曜日

有島と谷崎と太宰を読み比べて

有島武郎の「或る女」と谷崎潤一郎の「春琴抄」と太宰治の「おさん」を続けて読んだ。「或る女」の前編を読み、それから「春琴抄」「おさん」、「或る女」の後編と読んだので、3人の作家の女性像の違いを鮮明に感じた。
彼らの中では谷崎が最も好きなのだが、有島の女性像と比べると谷崎ワールドの女性達はいかにも平面的だということを初めて感じた。谷崎は男を翻弄する毒婦型の女を好んで描いたが、彼が描くような完璧な悪女は虚構の世界の住人としては面白いし、男性優位の世の中でこれだけ自己本位に徹せられる女性は痛快だとは思うものの、そこまで「悪女」になり切れる女は現実には滅多にない。肉親の情にほだされることもあれば、千人の男を手玉に取ってきた女が千一人目の男によって真の恋に目覚め、それまでの生き方を悔いて苦しむこともある。

「或る女」のヒロイン葉子は、その点ではリアリティのある人物だ。美貌で勝気で男を操る手管も心得えた葉子は、確かに奔放な妖婦型の女ではあるが、情事に心をふるわせ、男の心を独占できぬことに苦しみ、彼への愛と肉親への愛に心を引き裂かれもするし、家事に采配を振るう良妻賢母の一面もある、矛盾に満ちた、ということはリアリティに満ちた存在だ。
モラルや法律を冒すとき、たいていの人は心の痛みを感ずる。谷崎ワールドの悪女達は、そうした葛藤を経ずにやすやすと既成概念を超え、また、それが許されるだけの美貌と魅力を備えているが、「美しくさえあれば何をしてもいい」というのは、谷崎のような耽美主義者や、その世界の中でだけ通用する観念で、現実には、美貌よりも道徳や慣習や法律のほうが強いのだ。
森鴎外の小説はたいして面白いとは思わないのだが、それは彼の頭の中が整然とし過ぎて、登場人物の葛藤があまり感じられないからだ。その点、「舞姫」はいい。日本のエリート青年とドイツのダンサー、日本なら芸者に類するような少女との恋、それが真剣なものであるだけに謗りを受けてエリートコースから脱落した青年が、結局はエリートコースへ復帰する路を選んで現地妻を捨てる、その葛藤に共感できるからだ。

「或る女」は、有島版「アンナ・カレーニナ」だ。美貌と才気に恵まれた葉子は恋愛結婚に失敗し、両親を亡くし、娘と2人の妹を抱えて、気に染まぬ青年との再婚を承諾させられる。渡米した婚約者のもとへ赴く航海中に、上級船員の倉知と恋に落ち、婚約者と再会はしたものの、はっきり破約せぬまま帰国する。このために倉知は離婚し、解雇され、軍事スパイとなる。彼と葉子は内縁関係を続けるが、倉知の心は冷めてゆく。彼を生涯の伴侶と思っていた葉子は嫉妬に狂い、ヒステリーを起こし、健康を害し、衰弱した身体のまま外科手術を受けて死亡する。
不倫の愛ゆえに世間から孤立し、その閉ざされた世界の中で愛に生きようとする女と、愛だけでは生きられぬ活動的な男との心の掛違いが拡大していく悲劇、女の発狂と死、という結末はまさに「アンナ・カレーニナ」だ。もっもと葉子は、アンナほど純粋ではない。婚約者の親友で、実直な青年を、ただ罪を犯させたいがために誘惑しようとするコケティッシュな女でもある。

ただ誘惑するために男を誘惑し、翻弄する女の一人として、ダフネ・デュ・モーリアの「レベッカ」が思い浮かぶ。美貌と才知で出会う人すべてを魅了するレベッカは、義兄や使用人をも誘惑するが、そうした恋愛遊戯は気晴らしに過ぎない。乳母でもあった腹心の家政婦だけを心の友とし、男という男を嘲笑い、愛に囚われぬがゆえに冷静で自由で、ごく身近な人々以外にはその二重生活を気取られることなく、上流婦人としての体面を保った生活をしていた。
「或る女」を読んで感じたのは、レベッカのように誰も愛さずに人は生きていけるのだろうか、という疑問だ。「誘惑する女」だって、自分が吐き出した恋の糸に自ら絡め取られてしまうこともあろう。それが人間というものだ。その弱さを持っているからこそ、葉子にはリアリティがあるのだ。彼女のような勝気な才女が、知性によって野性を漂白されてしまった穏便なインテリ青年達を物足らなく思い、行動によって生きる海の男に惹かれる気持ちはよく分かるし、妹の片方を可愛く思い、もう片方を憎く思ったり、何かと娘を心の支えにしながら、男のためには犠牲にしてしまう「女は母より強し」の心理もよく分かる。
気に入らぬ方の妹が葉子の丹精によって美しくなり、自分の情人や崇拝者の関心が彼女に移り始めた時の複雑な感情の起伏、それはかつて葉子の母親が葉子に対して感じた感情のリフレインなのだが、そうした女性の肉親間の微妙な心理の綾を、どうして有島は知り得たのだろう? あまり日本文学を読んでこなかったのでエラそうな事は言えないが、「或る女」は日本の小説としては珍しいほど骨組みのしっかりした、ストーリーにも人物にも奥行きのある作品だと思った。

太宰の「おさん」は、先日、三鷹を散歩したおり、太宰の住まいにあったという百日紅を見て、その百日紅が出てくる小説として紹介されていたので読んでみた。戦争で人が変わってしまった夫が愛人と情死する、その終わりの日々を妻の視点から描いた短編で、太宰自身の最期を予告するような話だ。
太宰は女性の一人称の語りを得意としているが、女性を描いているのではなく、女性を媒介として男性を描いているのだ。「ヴィヨンの妻」の語り手の詩人の妻、元は長屋住まいのおでん屋の娘と、「斜陽」の語り手の令嬢が、同じ山の手言葉で話しているのはおかしい。太宰の作品は代表作以外は読んでいないので断言はできないが、彼が描く女性は下層階級に属する人であっても山の手言葉で、つまり彼が本来属していた上流階級の人々の言葉で話していて、この点だけでもリアリティに欠ける。彼の作品の登場人物で共感できる女性は、「饗応夫人」の「奥さま」だけだが、これは太宰自身を戯画化した人物のように思える。「おさん」と「ヴィヨンの妻」の語り手の夫も、「斜陽」の語り手の弟も、太宰を戯画化したロクデナシの飲助だが、そんなふうに彼の小説はどれをとっても主要人物が彼の戯画像で、女性の語りを通してその男が描かれるという構造になっている。結局、彼は小説を通して様々な角度から見た自画像を描き続けたのだろう。その自分を見つめる視線が恐ろしく客観的なところが、彼が優れた作家たるゆえんなのだが。

それにしても、名家の出の太宰が貧乏たらしい世界を書き、庶民の出の谷崎が上流階級や花柳界の華やかな世界を書いたという対比は面白い。

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