2008年7月13日日曜日

『ワーキングプア』の一部私訳

 11日の金曜日で、翻訳学校での夏休み前の最終講義が終わりました。
 前後2回に分けて、デイヴィッド・K・シプラー著『ワーキングプア』第9章の一部を訳したので、以下に載せます。なおシプラーは、ピューリッツァー賞受賞者です――なんて、たったいま知ったのですが。
 既訳には、森岡孝二ほか訳の『ワーキング・プア』が岩波書店から出ています。

"The Working Poor" by David K.Shiplerより

第九章 ドリーム

「大人になったら」と十一歳のシャミカは言った。「弁護士になりたいの。そしたら人助けができるでしょう」どんな人を助けるの、と私は尋ねた。「ホームレス」と彼女は答えた。「小さな子には助けが要るでしょ。だから、ホームレスを助けてあげたいの」すべてが可能だという確信にまだ瞳が輝いている、六年生の明るい信念できっぱりと言った。
 彼女の住むアナコスティアの最貧困地区、ワシントンの大理石の歴史的建物が点在する場所から汚染された川を渡った地域では、この子ども時代の澄んだ眼差しが高校までもつことはめったにない。そこへ至るまでに、どういうわけか、若者の将来の見通しは曇らされている――あるいはスポーツ選手として、アメリカンフットボールの競技場やバスケットリングの下で名声と富を得ようという、甘い考えにすり替えられているのだ。
 貧困地区の中等学校[注一]で私が話を聞いた子どもの大半は、大学へ行きたがっていた。親の中には失業者もおり、他は家具の運搬、図書館の本の整理、政府関係の建物の清掃といった仕事にありついていた。多くはスーパーマーケット、工場、介護施設、自動車修理工場、病院、美容院で働いていた。一握りの親だけが機械工、大工、電気技師、コンピューターのオペレーターといった技能職に就いていた。子どもたちが夢を実現しようとするなら、ほとんどの子が教育、職業、所得といった社会的なヒエラルキーを上昇していかねばならない。つまり、アメリカンドリームを叶えねばならないのだ。
 シャミカの六年生の友人グループ五人のうち、三人は弁護士になった自分を思い浮かべていた。もう一人は検眼医[注二]になりたがっていた。五人目のロバートは「(会社の)社長や何かか、お医者さんみたいにオフィスで働いている」自分を夢見ている。その目的は、いい行いをする力を手にすることだ。「そしたら、家族が困ったりなんかしたときに、おれが駆けつけて、助けてあげられるじゃん」と彼は言った。会社を経営するのは「ホームレスの人たちの所へ行って助けて、お金をあげて、慈善や何かの手助けをしてやりたいから」だ。
 オハイオ州アクロン市の、オポチュニティパークという貧困地区で会った六年生グループの子たちは、歌手や小児科医、警官、看護師、ラッパー、機械工になりたがっていた。その野心は若い生命の縁から溢れ出ていた。建説労働者と美容師の娘ドミニクは、盛んに「考古学者と小児科の先生」になりたがっていた。「いっぺんに?」と私は尋ねた。「ちがうよ、考古学者は年を取ってから、小児科の先生はもうちょっと若いとき、二十歳とか三十歳ぐらいのときに」 
 このアクロン市の学校の七学年の黒人は、黒人が脚光を浴びる最も典型的な職業を挙げた。フットボール選手、バスケットボール選手、ラッパーだ。白人はアーティスト、獣医、自動車修理工を挙げた。白人のドンは、市の道路舗装の仕事がしたいという理由を、こう説明した。「払いがいいだろう」ワシントン市の二つの低所得地区にある学校の七年生はほとんどが黒人で、将来の夢として弁護士、写真家、フットボール選手、バスケットボール選手、FBIの捜査官、女性警官、セールスマン、医者、ダンサー、コンピューター技術者、建築家、アーティストを挙げた。八年生は海洋生物学者やコンピューターエンジニア、科学者、建設労働者、弁護士、小児科医になりたいと言った。その子たちが挙げた職業は、たまたまその仕事に就いている人と出会ったか、それについて読んだかテレビで見たかして、時には熱い想いと共に、たいていはふとした一時の気まぐれとして、心に入り込んだものだ。もし統計を取ったら、夢を実現する者も中にはいるだろうが、たいていは実現できずに終わるということになるだろう。多くの子が高校を中退し、限られた子だけが大学へ行き、将来はほとんどの子が低賃金の仕事に追い込まれてしまうだろう。
 ミセスCは生徒の野心を冷笑した。彼女はシャミカの学校、ワシントン市のパトリシア・R・ハリス教育センターで十五年間、歴史を教えているベテラン教師だ。「生徒たちは毎日遅刻するし、一日おきに休むんです」と、この教師は嘲った。ミセスCは黒人で、教え子の大半もそうなので、人種差別だと咎められることなく、手厳しく、歯に衣を着せずにものが言えた。「生徒に訊くんです、『今から十年後には何をしていますか』って。みんな、医者になっているとか、バスケットボールの選手になっているとか言います。弁護士になっているとか。フットボールの選手になっているとか。で、私は言うんです、『フットボールチームはいくつありますか、それぞれのチームには選手が何人いますか? あなたが選手になれるチャンスはありますかって。それに、弁護士になるなら読解力が要るってこと、分かってますか? 医者になるなら、数学や読解力が要りますよ。夢を実現することはできるけど、努力を続けなきゃいけませんよ』って」彼女は、お手柔らかとは言えぬやり方で子どもの夢を踏みにじっていたが、事実を話そうとしていたのだ。「生徒には夢を持って欲しいけど、夢を実現する過程では現実的になって欲しいんです」
 ミセスCを始め多くの教員にとって、実態は憤慨やる方ないものだ。ミセスCはこう言った。「あの子たちは怠け者なんです。本を読もうとしないし、宿題もやってきません。宿題なんて、虫歯を抜くようなものなんです。たいていの子が家では関心を払われてないので、学校で関心を引こうとするんです」それで生徒は問題を起こすのだ。先生の裁量で褒美や罰は与えられないんですか、と私は訊いた。ミセスCは頭を横に振った。「あの子たちは平気でFの成績を貰ってますよ。気にしていないんです。気にしているのは教師だけです」と決めつけた。
 シャミカはもう反目の連鎖に巻き込まれていた。彼女は愛らしく、おしゃべりだった。二本のすてきな三つ編みが、頭の高い所から編み込まれて耳の上に垂れているが、それは母親の細やかな愛情のあかしだ。ひっきりなしにおしゃべりをしているので、授業中の私語が多すぎるのを注意しようと、先生は両親へ電話してきた。シャミカは、先生は別のシャミカという子と自分をごっちゃにしているのだ、と言い張った。それで両親はその先生が嫌いだし、自分は先生の評価を気にかけないようにしている、と面白そうに言っていた。「宿題を返してもらったら、先生ったら利巧ぶってんの。私がこの言葉を間違えたら、先生は利巧ぶって書いてたの、『勉強の必要がありますね、グリル』って。GRILって書いてあんのよ。そのあと通信簿を貰ったら、私にDを付けてるの、『GIRL(ガール)』の綴り方も知らないくせに!」と、シャミカはとげとげしく言った。

[注一] 中等学校(middle school):米国では地域によって異なるが、通常五、六年から八学年まで。
[注二] 検眼医(optometrist):眼鏡やコンタクトレンズを作る際の視力測定や、目の病気の診断などをする医師。目の手術や薬の処方などは、専門の眼科医(ophthalmologist)が行う。 

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